moment 2018年 11/12月号
日本紀行 福島県 会津

「会津らしさ」を遡る
150年旅

文・石田 治 写真・戸澤直彦

「維新150年」の言葉が躍った2018年だが、会津では「戊辰150年」であった。この地を訪れて名所旧跡をめぐれば、すなわち、ものがなしくも毅然とした歴史の一端に触れれば、その理由が腑に落ちる。会津人が今も大切にする「什(じゅう)の掟」の精神がそこかしこに息づいているのだ——。

会津藩士の矜持と気概

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2018年は明治維新150年である。しかし、東北に視点を転じると、色合いは少し違ってくる。

維新が成った1868(慶応4/明治元)年、東北では、会津藩を中心とする旧幕府軍(奥羽越諸藩)と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍の間で国内戦が行われていた。世に言う「戊辰(会津)戦争」だ。

「この間の戦争って、太平洋戦争ではなく戊辰戦争のことサ」と、当の会津人は冗談めかして言う。しかし、会津を訪ねる旅人は、彼らの心奥に、傷跡と矜持が今も確かに残されていることを感じるだろう。

幕末、京都には志士・浪士達が集まり、街は白刃の巷と化していた。都の治安回復のため、幕府は「京都守護職」という新たな役職を設け、会津藩主・松平容保(かたもり)に白羽の矢を立てた。会津藩が選ばれたのは、勤王を藩王学とし、徳川連枝の親藩であったこと。また、藩校・日新館の教育水準の高さにおいて比肩しうる藩校は他藩にはなく、磨き上げられた藩士の秩序は整然として鉄壁。泰平の世にも練兵を怠らず、その武勇は三百諸藩随一と言われていたことなどによる。「志操堅固にして兵馬強悍。守護職には会津しかない」と、幕府は若き容保を口説きに口説いた。

「京に赴くは火中の栗を拾わされるがごとし」と“時世の勢い”を冷静に捉えていた容保は拝辞し、藩の閣僚も諫止するが、徳川慶喜ら幕閣の強要に、容保はついに守護職を引き受ける。

果たして“時世の勢い”は、1867(慶応3)年、慶喜において大政を奉還させ、翌年、京都南郊で勃発した「鳥羽伏見の戦い」以降、新政府軍は東進し、江戸城を無血開城させ、徳川幕府時代は終焉を迎える。だが、薩長の兵は、京都守護職と新選組によって多くの志士仲間を失った恨みを会津に向け追討を開始。そして、会津はこれを迎え撃った。

会津松平家の「家訓十五箇条」第一条には「大君(将軍)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処するべからず」とある。幕命に忠勤せよ。他藩とは違うのだ、と。容保の苦渋の決断の奥にも、そして戦いの中に自刃した少年兵達「白虎隊」にも、実直な、あるいは愚直な「武士(もののふ)の魂」があった。

会津は敗れた。しかし士道を貫いた。「義に死すとも不義に生きず」という会津武士の精神的根幹は、150年の未来を生きる市民の中に、淡月のように光を灯しつづけている。

女性でありながら会津武士道を以て自らの信念を貫き、人びとの幸福を願って明治期を生きた新島(山本)八重は、城明け渡し前夜の心情をこう詠んだ。

 明日の夜は何国の誰かながむらん
 なれし御城に残す月かげ

寂しさの中に「新しき世」への希望がにじむ。

御薬園

松平容保の居所、戊辰戦争での役割

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京都から会津に戻った容保は、新政府に恭順の意を示すため、鶴ヶ城ではなく、城下「御薬園」にある屋敷に入った。御薬園とは借景池泉回遊式庭園と、各種薬草を栽培する薬草園からなり、3代藩主が園地に朝鮮人参を試植。のちには民間にも奨励した。

民草を思う藩主の「義」と「仁」は、藩士や民衆にも浸透し、会津はいつも“ひとつ”でありつづけた。

会津藩士の子弟は、藩校・日新館入学前の6歳から9歳までの間、「什(じゅう)」という10人前後のグループを作り、ひとつの「掟」を共有していた。

ひとつ、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。ひとつ、虚言を言ふことはなりませぬ。ひとつ、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。ひとつ、弱い者をいぢめてはなりませぬ――。そして「やってはならぬ。やらねばならぬ。ならぬことはならぬものです」と強く断じて結ばれる。

武士として自らを律し、会津人の「義」を育てた「什の掟」は白虎隊の忠烈を支え、そして会津の子ども達が唱和する「あいづっこ宣言」となって現代に受け継がれている。

御薬園

御薬園の一画を占める薬用植物標本園。現在は朝鮮人参やキハダ、トウキなど約400種の薬草・薬木がある。

御薬園

戊辰戦争で新政府軍の療養所となったが、1873(明治6)年、若松の豪商が中心となって寄付を募り、政府より買い戻して松平家に献上。1883(明治16)年から数年松平容保一家が住んだという。現在は会津若松市所有。

住所:福島県会津若松市花春町8-1
電話:0242-27-2472
URLhttp://www.tsurugajo.com/oyakuen/

会津漆器

藩の財政を支えた伝統工芸の今

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江戸時代に発行された「諸国物産品番付表」に、会津の特産品筆頭として挙げられた「会津漆器」。戦国期より続く会津の代表的な伝統工芸品に、今、新風が吹きよせている。

仕掛け人は関美工堂代表取締役の関昌邦氏。氏が会津漆器協同組合青年部に所属していたときには「デザイン性も重視した新しいタイプの普段使いの漆器を」と、新ブランド「BITOWA(ビトワ)」を立ち上げ、国内外に新たな販路を築いた。その後、関氏は「漆がある暮らし・遊び」をコンセプトに「NODATE(ノダテ)」というアウトドア用の漆器ブランドを独自に企画し、発表。

会津漆器は装飾性に優れ、かつ堅牢。強酸、強アルカリそして菌にも強い。

「商品は“みやび”なだけではなく機能も大切。木は軽くて持ち運びやすく、アルマイト製のアウトドア用品にはない自然界のぬくもりもあります」

関氏は、家業を継ぐため会津へ帰ってきたとき、塗り椀で食べたご飯がひどくおいしく感じられたという。その感動を伝えたいと語る。

「カジュアルな普段使いの暮らしの道具として、漆のベストな商品を探求し、楽しさや多様性を提供していきたいですね」

最高級馬刺しと会津郷土料理を味わう

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WHERE TO DINE IN AIZU會津鶴我東山総本山

町並みが東山温泉の緑陰にとけ込むところ、会津武家屋敷と向かい合って御殿のような木造家屋が建つ。県内外に4店舗を展開し、地産食材にとことんこだわってつくる会津郷土料理、茶懐石、会津会席の名店「會津鶴我(あいづつるが)」の総本山だ。ケヤキや天然秋田杉をふんだんに使った贅沢で落ち着きある空間は、昭和の会津三大木造御殿と称えられ、茶室「明静庵」、個室や大広間のある母屋「充静庵」がある。

鶴我の代名詞は「馬刺し」だ。藩校・日新館でオランダ人教師が生徒に馬肉を食べさせたことがそのまま会津の味となったという。厚切りの赤身肉にからし味噌を付けていただくのが会津流。庭の生簀に泳ぐ鯉や岩魚の刺身も楽しめる。地酒は会津の純米酒が30種用意され、その選択に心迷うのも楽しい。

会津漆器に盛り合わされた、先人の知恵や風土が生んだ郷土の味覚の数々は、器ぐるみ絵のように美しい。武家のお座敷で饗応を受けるような贅沢なくつろぎの中で、藩政時代を思って時間を遡ってみたい。

會津鶴我東山(あいづつるがひがしやま)総本山

住所:福島県会津若松市東山町大字石山字院内151
電話:0242-23-8294
営業時間:11:00~お客さまのご希望
定休日:なし ※完全予約制
URLhttp://turuga829.com/