moment 2018年 1/2月号
日本紀行 長崎県長崎・天草

長崎・天草
世界遺産と南蛮文化を訪ねて

文・山口由美 写真・飯田裕子

旅に出るきっかけのひとつに世界遺産がある。ならば長崎、天草へ——。2015年7月に世界文化遺産に登録された長崎市の旧グラバー住宅、そして、2018年の世界文化遺産登録をめざす「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産を訪ねたい。登録前の静かな今こそゆっくりと時を過ごし、一つひとつの来し方行く末に想いを馳せる。

長崎市・南山手町丘の上の洋館にグラバーの面影を見る

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トーマス・ブレーク・グラバーが長崎に上陸したのは1859(安政6)年9月のこと。時代は幕末の動乱の中にあった。翌年、弱冠22歳の彼に大きなチャンスが転がり込む。長崎におけるジャーディン・マセソン商会の代理人を前任者から引き継ぐことになったのだ。そうして入手したのが外国人居留地の一等地、今も旧グラバー住宅が建つ、海を見下ろす丘の上の土地だった。

やがてグラバーは、倒幕を志す薩長に武器を売ることで頭角をあらわしてゆく。当時、極東をめざした若き貿易商たちのことを「冒険商人」と呼んだが、紛争に乗じた武器商人はまさに冒険商人の真骨頂だった。

血気盛んなグラバーは、商人として利益を上げるだけでなく、日本の夜明けに自身が関与している興奮もあったのではないか。坂本龍馬の手柄とされる薩長同盟だが、グラバーも薩摩と英国を結びつけることで一役を演じている。晩年のインタビューでも「徳川政府の反逆人の中では、自分が最も大きな反逆人」と語った彼の心は、坂本龍馬と同じく幕末の志士だったのである。

武器商人としてグラバーが活躍したのは、維新前夜のわずか4年ほど。龍馬は暗殺されたが、グラバーは維新後、親交のあった岩崎弥太郎の後ろ盾で、財閥三菱の重役として生きた。それが世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつに旧グラバー住宅が選ばれた理由と言える。

さらに、旧グラバー住宅が今もあるのは、長崎を愛し、家を守った息子、倉場富三郎の果たした役割が大きい。終戦後は、進駐軍が接収。その時、ここに暮らした米軍大佐夫人が長崎を舞台とするオペラ『蝶々夫人』の物語に重ねあわせ、「マダム・バタフライハウス」と命名した。それもまた冒険商人の邸宅が後世に残った理由だろう。

出津教会堂

旧グラバー住宅

2015年、世界文化遺産に登録された日本最古の木造洋風建築。幕末から明治にかけ、日本の近代化に貢献したスコットランド人、グラバーが、1863(文久3)年24歳時に建築。長崎港を見下ろす一等地にあり、3万㎡もの広さのグラバー園の中核をなす。

住所:長崎県長崎市南山手町8-1 グラバー園内
電話:095-822-8223
URLhttp://www.glover-garden.jp/

長崎市・丸山町史跡料亭で夢想するグラバーと龍馬の邂逅

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長崎の丸山は、江戸の吉原、京都の島原と並び三大遊郭と呼ばれた。その中で、丸山が特徴的だったのは鎖国時代、唯一、外国人を相手にした遊郭だったことだ。

シーボルトが愛した楠本滝も、源氏名「其扇(そのぎ)」という丸山の遊女。若き日のグラバーも丸山に足繁く通い、菊園という遊女を見初めている。2人の間には子供も生まれたが夭折。その後、出会ったツルと結婚した。

現在の丸山界隈は、だいぶ風景が変わったが、唯一、面影を今に伝えるのが長崎県史跡の料亭「花月」である。

丸山随一の太夫屋「引田屋(ひけたや)」の楼号は花月、または花月楼と称した。現在の花月は、この引田屋の建物と庭園を引き継いでいる。丸山は1879(明治12)年に大火があったが、花月は焼け残り、江戸末期建造と伝えられる建物は今も現役だ。日本最古の洋室と言われる「春雨の間」はタイル貼りの床と中国風装飾が印象的。丸山に出入りした外国人には、唐人と呼ばれた中国人も多かった。

維新の志士も訪れた。それを物語るのが、大広間の床柱に残る、坂本龍馬のものと伝えられる刀傷だ。

1867(慶応3)年、丸山で2人の英国人水夫が殺害されたイカルス号事件が起きる。その時、花月にいた海援隊のメンバーが嫌疑をかけられたことから、刀を抜いたものらしい。龍馬が京都の近江屋で暗殺されるのは、同年12月のこと。激動の歴史の余韻がそこにある。

史跡料亭 花月

長崎名物の卓袱(しっぽく)料理。鎖国時代に外国人が居住を許された長崎ならではの、和中洋からなる宴席料理。女将の「おひれをどうぞ」というあいさつで食事はスタート。「おひれ」とは鯛の吸い物で、1名の客につき鯛1尾を用いるおもてなしの心が込められているとか。

史跡料亭 花月

三大遊郭のひとつとして栄えた丸山に、1642(寛永19)年創業の料亭。長崎名物の卓袱料理や会席料理が味わえる。利用客は往時の面影を残す建築、庭園のほか、坂本龍馬直筆の書等を展示する集古館見学も可能。1960年、長崎県の史跡に指定された全国でも珍しい「史跡料亭」である。

住所:長崎県長崎市丸山町2-1
電話:095-822-0191
URLhttp://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/

長崎市・南山手町1865年「信徒発見」の舞台にて

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旧グラバー住宅が竣工した翌年、同じ棟梁、小山秀之進が手がけたとされるのが大浦天主堂である。当時は、キリシタン禁制が続いており、在留外国人のため、という名目で建立が許された。

奇跡とされる出来事が起きたのは、献堂から1カ月後の1865(元治2)年3月17日。フランス人のプチジャン神父は、ひとりの貧しい婦人に「私どもはあなたさまと同じ心にございます」と告げられる。そして彼女は言った。「サンタ・マリアのご像はどこ?」

喜びのあまり駆け寄ったマリア像は、今も祭壇の向かって右脇に佇んでいる。

大浦天主堂は、1597(慶長元)年、秀吉の命により十字架にかけられた26聖人殉教者に捧げられた聖堂だった。

その後も迫害は続き、徳川幕府による禁教令が1612(慶長17)年。最後の大きな反乱である島原の乱以降、幕府の取り締まりは一層厳しくなり、日本のキリスト教は消滅したと信じられていた。それだけに250年の空白を経ての「信徒発見」は、驚きと共にヨーロッパに報じられた。

しかし、まだ迫害の悲劇は終わらなかった。発見された信徒の住む浦上では過去何度かキリシタン摘発(崩れ)があったが、幕末から明治にかけての四番崩れが最大だったとされる。日本におけるキリスト教の禁制が解かれたのは1873(明治6)年のことである。

大浦天主堂

大浦天主堂

プチジャン神父の指導のもと、天草出身の棟梁、小山秀之進により1864(元治元)年竣工、翌年盛大な落成祝いが行われた。1933年文部省により国宝に指定。原爆で大きな被害を受けたが、5年の修復工事を経て、53年に文化財保護委員会によって国宝に再指定。日本に現存する最古の天主堂である。

住所:長崎県長崎市南山手町5-3
電話:095-823-2628
URLhttp://www1.bbiq.jp/oourahp/
ステーキハウスおかの

長崎名物の路面電車、思案橋電停のはす向かいに位置する「ステーキハウスおかの」外観。

ステーキハウスおかの

1966年、長崎で初のステーキ専門店として長崎随一の繁華街、思案橋に創業。長崎など全国でも最上級にランクされている九州産和牛の極上肉を扱う。素材にこだわりぬいた分厚いステーキ肉を、目の前で美味しく焼いて供する創業以来のスタイルを守りつづけている。

住所:長崎県長崎市本石灰町6-8
電話:095-824-3048
URLhttp://www.steakhouse-okano.com/
ランチ:12:00〜14:30(L.O.14:00)1,840円(税込み)〜
ディナー:17:00〜22:30(L.O.22:00)6,480円(税込み)〜