moment 2017年 9/10月号
日本紀行 岡山県倉敷

倉敷に息づく審美学

文・高瀬由紀子 写真・蛭子 真

1642(寛永19)年に天領となって以降、物資の集積地として繁栄した岡山県倉敷。川沿いに白壁土蔵が建ち並ぶエリアは「倉敷美観地区」と呼ばれ、往時の姿を今にとどめている。そこには日本初の私立西洋美術館や、国内2番目となる民藝館など貴重な文化施設がある。なぜ、倉敷に——。この問いを胸に町を逍遥すると、倉敷人に通底する思いが見えてきた。

  • 倉敷川

    かつては物資を運ぶ舟で賑わった倉敷川。現在も観光用の川舟が運航され、町の風情を味わえる。

  • 倉紡記念館

    原綿倉庫だった当時の赤煉瓦の壁をもつ「倉紡記念館」の展示室。登録有形文化財および、近代化産業遺産に認定されている。

  • 倉敷ガラス

    小谷眞三氏の長男・小谷栄次氏が作る倉敷ガラスは、館内ショップで購入も可能。吸い込まれそうな青色が美しい。

  • DENIMWORKS

    オーダージーンズで培った技術と経験を活かした、大人向けの既製品ブランド「DENIM WORKS」も好評。


Access
倉敷美観地区へは、岡山空港から山陽自動車道経由で約40分、JR岡山駅から車で約35分。美観地区から児島へは約30分。美観地区の倉敷川沿いの道は時間帯によって車両進入禁止のため、近隣のコインパーキングなどに車を停めて散策を。Googleマップ


天領地の面影をとどめる町並

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倉敷の町を巡るなら、まずは川舟に乗るのがおすすめだ。美観地区と呼ばれる古い町並の中心部を流れる、倉敷川の舟着場がスタート地点。小さな木舟に乗り込み、柳並木の緑が映り込む水面を滑るように進むと、両岸に軒を連ねる白壁やなまこ壁の蔵が次々と目に入る。手漕ぎ舟ゆえに景色の移り変わりがゆったりしているのも心地よく、ふっと江戸の昔に迷い込んだような気分になる。

風情豊かな町並が広がる倉敷だが、かつては辺り一面が遠浅の海だった。10〜14世紀にかけて、河川の上流から少しずつ土砂が運ばれて干潟となり、近世以降の干拓によって陸地に姿を変えていったのだという。新しい地にまず植えられたのは綿花。干拓されたばかりの土地は塩分が多く米作りには適さないため、塩に強く、塩分の吸収作用もある綿花栽培が盛んになっていった。

この一帯が格段の発展を遂げるのは、江戸時代に入ってから。天領、つまり幕府の直轄地となったことで代官所が置かれ、周辺の天領地を統括する政治の中心地となる。商業面でも、備中地方の物資が集積し、上方への輸送中継地として大いに発展した。こうした物資の一時保管所を“蔵敷地”と呼んでいたことが、“倉敷”の地名の由来といわれている。

瀬戸内海に面する児島湾につながる運河として整備された倉敷川の周辺には、商人の蔵や屋敷が建ち並び、綿などを扱う問屋や仲買人で賑わった。さらに商人は、領地の支配体制を固めるために協力を求めてきた代官所から、新田開発の権利を与えられる。こうして、米の流通も担うことになった商人は、ますます勢いを増していった。幕末には、巨富を築いた商家が数十家にも及んだという。

白壁がまぶしい蔵の数々、河畔の荷揚げ場、川灯台として作られた常夜灯——。倉敷川沿いを歩けば、港町としての繁栄を物語る風景に、随所で出会うことができる。

町の再興を担った大原一族の信念

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天領として繁栄を極めた倉敷だが、明治維新によってその機能は失われ、勢いを急速に失ってしまう。そうした中で、町の将来を憂えた若者達が新しい産業を興そうと地元の有力者に働きかけ、この地で採れる綿花を活かした紡績業の立ち上げを提案する。折しも、維新政府は富国強兵・殖産興業の国策をとり、民間紡績業の育成を促進していた。

こうして、1888(明治21)年に設立されたのが倉敷紡績所、現在のクラボウ(倉敷紡績)だ。初代社長に就任したのは、倉敷を代表する豪商だった大原家の主・大原孝四郎。工場が建てられたのは、かつての代官所跡だった。代官所に代わり、紡績所が新たな時代の発展を担うこととなったのだ。

孝四郎の跡を継いだ息子の孫三郎の代に、業績は大きく飛躍する。他社との合同合併による規模拡大などを経て、倉敷紡績所は日本有数の紡績会社へと成長し、町も活気を取り戻した。

孫三郎の偉業は、事業の紡績業を軌道に乗せたことにとどまらない。労働者の環境改善、孤児院への援助、最先端の総合病院や農業研究所の設立——。こうした社会福祉事業への邁進は、日本初の孤児院を創設した、クリスチャンの石井十次との出会いから始まった。若い頃は放蕩三昧の日々を過ごした孫三郎だが、石井の奉仕の精神に感銘を受け、自身も大きな理想に燃える。昭和初期には、世界恐慌などの影響で本業が危機に瀕した時期もあったが、福祉事業や後に述べる文化事業から、決して手を引くことはなかった。孫三郎の口癖は、「わしの眼は十年先が見える」。その言葉以上に、現在も各施設は名前や形を変えつつ、社会貢献の役割を担っている。

孫三郎の精神を感じさせる場所のひとつが、煉瓦造りの建物群「倉敷アイビースクエア」。クラボウの旧倉敷本社工場がホテルやミュージアムなどの複合施設として生まれ変わったもので、外壁を覆い尽くす蔦(アイビー)の存在感が圧巻だ。「これも、従業員の労働環境を改善したいという、孫三郎の信念の一環なのです」と、施設の代表取締役を務める小林清彦さんは語る。西日を防いでくれる蔦は、夏は茂り、冬は落葉することで、自然と工場内の温度調節機能も果たした。「ほかにも、換気塔や井戸水を循環させる冷房を設置するといった、さまざまな配慮が施されていました」

さらに孫三郎は、女子工員のための寄宿舎を、従来の非衛生的な大部屋タイプから、分散式と呼ばれるゆったりした造りに改良。貧しい家庭出身の工員のために、教育施設の設立も惜しまなかった。

こうした彼の功績を含むクラボウの歴史は、敷地内の「倉紡記念館」で、じっくりと辿ることができる。原綿倉庫を改造した建物も、歴史を感じさせる趣深い空間だ。

倉敷アイビースクエア

赤煉瓦にノコギリ屋根の建物は、紡績の先進国イギリスの工場をモデルに造られたもの。

倉敷アイビースクエア

1973(昭和48)年、クラボウの旧工場を改修して生まれた複合施設。赤煉瓦と蔦が印象的な建物には、ホテルやレストラン、土産物店などがあり、敷地内には倉紡記念館も佇む。

住所:岡山県倉敷市本町7-2
電話:086-422-0011
URLhttp://www.ivysquare.co.jp/

日本初の私立西洋美術館誕生の理由

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倉敷アイビースクエアをはじめ、倉敷には明治期以降に建てられた洋館も点在し、風情ある町並を美しく彩っている。中でも圧倒的な存在感を放つのが「大原美術館」だ。ギリシャ神殿風の品格が漂う建物は、日本初の私立西洋美術館として名高い。孫三郎が手がけた文化事業の代表格である。「作品収集は孫三郎の個人的な趣味ではなく、あくまで社会貢献の一環として、という思いから始まりました」と語るのは、主任学芸員の𠮷川あゆみさん。

きっかけは、洋画家の児島虎次郎との出会いだった。児島の画才とひたむきな人柄に惚れ込んだ孫三郎は、留学などを全面支援。最初の渡欧から帰国した児島は、本格的な洋画を見る機会がない日本の人びとのために、西洋美術の収集をすべきだと提案する。

孫三郎の承諾を受け、再び渡欧した児島は、エル・グレコの「受胎告知」を筆頭に、数々の優れた作品を収集していく。モネの「睡蓮」やマティスの「マティス嬢の肖像」など、画商に頼らず自ら画家のアトリエを訪ねて手に入れたものも多い。絵画のみならず、エジプトや中国などの古美術も購入。児島の審美眼の確かさは、後に満州事変の際、国際連盟から派遣されたリットン調査団の団員が、コレクションの質の高さに驚嘆したと伝えられるほどだ。それゆえ、倉敷は第二次大戦時の空襲を免れたという説もある。

大原美術館は、児島が若くして病没した後の1930(昭和5)年に、彼の業績を記念して設立された。現在、本館の入り口をくぐると真っ先に出迎えてくれるのは、児島の代表作「和服を着たベルギーの少女」である。

多彩なアート発信基地として進化は続く

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戦後になって、孫三郎の跡を継いだ息子の總一郎は、美術館をさらに飛躍させる。本業においても、倉敷レイヨン(現在のクラレ)で、日本初の合成繊維であるビニロンの工業化を成功させた總一郎は、新進気鋭の精神を文化面でも発揮。「孫三郎の志を受け継ぎつつ、“美術館は生きて成長するもの”という信念から、現代美術をはじめ、コレクションの幅を広げていったのです」と𠮷川さんは語る。外国の作家だけではなく、日本の近現代作家の絵画や、民芸運動に携わった作家の工芸作品も積極的に収集され、分館や工芸館、東洋館など、コレクションの増大とともに展示施設も拡大。総合博物館へと進化した大原美術館は、世界的にも評価を高めていった。

音楽にも造詣が深かった總一郎は、美術館を会場にしてコンサートを開くという、当時は類を見なかった試みも実施した。美術館創立20周年の1950(昭和25)年に、世界的なピアニストのラザール・レヴィを招いて開催したのを皮切りに、周年行事などで定期的に開かれたギャラリーコンサートは、現在まで脈々と続けられている。創業者の精神を受け継ぎ、ほかにも、さまざまな企画展や美術講座、子ども達に向けた鑑賞プログラムやワークショップ、若手作家の支援等をコンセプトに新進気鋭の作家を招いたアーティスト・イン・レジデンスなど、多彩な活動に取り組んでいる。大原美術館は今もなお、成長しつづけているのだ。

美術館の対岸に建つのが、大原家の旧別邸「有隣荘」。周りの白壁の建物とは趣を異にする玉子色の外壁に、緑色の瓦屋根という外観がひときわ目を引く。当初は家族のためのこぢんまりした住まいを建てる計画だったが、皇族や貴賓を迎える宿泊施設の役割も果たしてほしいとの周囲の要望を受け、迎賓館を兼ねた大邸宅になったのだという。アールデコ調の洋間、端正な書院造りの和室といった和洋折衷のデザインが見事に調和し、昭和天皇をはじめ、数多くの貴賓がここでもてなしを受けた。倉敷随一の名士だった大原家の威信を感じさせる佇まいだ。

大原美術館

エスカレーターから着想を得たという東洋館の階段の手すり。

大原美術館

1930(昭和5)年、大原孫三郎によって設立された日本初の私立西洋美術館。世界でも名だたる名画のほか、後年、息子の總一郎が増やした著名作家の工芸品なども多数コレクションし、倉敷のシンボル的な存在。社会のためにと尽くした孫三郎や児島のDNAを受け継ぎ、美術館を使った教育普及活動や作家支援なども行われている。

住所:岡山県倉敷市中央1-1-15
電話:086-422-0005
URLhttp://www.ohara.or.jp/
有隣荘

シンプルで品格のある洋間は、日本にいち早くアールデコ様式をもたらした薬師寺らしいデザイン。

有隣荘

大原孫三郎が病弱な妻を気遣い建てた別邸。緑の瓦屋根をもつ屋敷の内装はシンプルなデザインながら、全体的に貴重な材を用いるなど、そのこだわりぶりがうかがえる。春と秋の年2回一般公開され、今秋は10月6日(金)~22日(日)。

 
住所:岡山県倉敷市中央1-3-18
電話:086-422-0005
URLhttp://www.ohara.or.jp/(大原美術館)

町並保存のシンボルを訪ねて

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アートの分野で、孫三郎と總一郎の好みはかなり違ったといわれるが、共通していたのは民芸への情熱だ。手仕事で作られた暮らしの中の工芸品に“用の美”を見出した民芸運動の提唱者、柳宗悦に共鳴し、東京の日本民藝館設立のために資金援助をしたのは孫三郎だった。大原親子は、河井寛次郎、濱田庄司、棟方志功、芹沢銈介など、柳と志をともにする作家達と交流を重ねた。總一郎が設けた大原美術館の工芸館には、深い敬意を込めて各作家の作品を展示している。

さらに總一郎は、東京に続く日本で2番目の民藝館となる「倉敷民藝館」の設立に尽力。初代館長には、牧師をしながら民芸運動に携わっていた外村吉之介が、柳の推薦で招かれた。「民藝館の役目は、誰でも何時でもできる“美しい生活”をひろめること」と明言した外村は、国内だけでなく世界各地の民芸品を集めて展示。館内には、イギリスのウィンザーチェアや日本の水屋箪笥、北欧の籠、李朝の壺など、国も年代も異なる美しき無名の品々が、しっくりと調和して輝きを放っている。こうした手仕事の飾らない美を、暮らしの中に取り入れてみたいという気持ちが、おのずと湧いてくるような空間だ。

展示品の中には、地元倉敷の民芸品も少なくない。温かみのある倉敷ガラス、い草や綿で織られた緞通、織物の研究者でもあった外村の指導で生まれた、ノッティングと呼ばれる厚手の敷物。どれもが現在も作りつづけられており、民芸の精神がこの地に受け継がれていることを物語る。

そして、倉敷民藝館を語るときに外せないのが、白壁の一部に瓦を貼り巡らせた、風格たっぷりの建物。江戸時代後期に建てられた米蔵を活用したもので、倉敷において歴史的建物を再生利用した最初の事例だ。1948(昭和23)年の設立当時は、伝統的な町並を保存するという意識は一般的でなく、むしろ壊して新しい町を作ろうという動きが主流だった。蔵の白壁は傷み、倉敷川は淀みきっていたという。

綻びかけていた昔ながらの風景に歴史的価値を見出して、きちんと保存していこうと提唱したのは、總一郎を中心とする町の有志達。民藝館館長の外村も、周囲の家を一軒一軒訪ねて、かけがえのない町並を保護する重要性を誠実に説いて回った。こうして賛同者は徐々に増えていき、總一郎が亡くなった直後の68(昭和43)年に、倉敷中心部は市の条例により、「美観地区」として保存されることが決定した。今に残る美しい町並は、郷土を愛する人びとの思いが実を結んだ結果なのだ。

倉敷民藝館

倉敷民藝館

東京の日本民藝館に次ぎ、1948(昭和23)年に開館。江戸後期の米蔵という古い建物を再生利用した倉敷初の事例で、以降、町並保存を象徴する存在に。古今東西の民芸品、約15,000点を所蔵。貼り瓦と白壁の外観も美しく、建物自体が民芸品だ。

住所:岡山県倉敷市中央1-4-11
電話:086-422-1637
URLhttp://www.kurashiki-mingeikan.com/
野の

野の

「カウンター文化を大切にしたい」と語る店主の植山則子さんが、ひとりで切り盛りするおばんざいの店。クラシックやジャズが流れる落ち着いた雰囲気の中で、豊富に揃うお酒を味わえるのも魅力だ。地元のファンも多い人気店のため、事前予約を。

住所:岡山県倉敷市中央1-8-7
電話:090-8990-2065
URLhttp://obansai-nono.com/

“倉敷らしさ”を受け継ぐ名宿にて

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倉敷の魅力をさらに体感するなら、ぜひ「旅館くらしき」に滞在してみたい。ここはまさに、倉敷の歴史や文化を象徴する宿。1957(昭和32)年に、江戸時代から続く老舗砂糖問屋の蔵屋敷を改築して生まれたが、その背景にも、町並を守りたいという總一郎らの願いがあった。

「後継者が途絶えて人手に渡りそうだったところを、總一郎の後押しで、地元で牡蠣料理店を営んでいた先代女将が旅館として再出発させたのです」と、当代の女将を務める中村律子さんは語る。總一郎とともに倉敷の町作りを担った建築家の浦辺鎮太郎が、昔の面影をとどめたままの改築設計を無料で請け負った。ほかにも、芹沢銈介がロゴデザインを手がけるなど、多くの人びとの力添えがあって生まれた経緯をもつ。

暖簾をくぐると、砂糖問屋時代の土間を活かした重厚なロビーに始まり、江戸時代に建てられた道具蔵や米蔵を改装した部屋、小径を経由する離れタイプの部屋など、間取りも趣向も異なる5つの部屋がある。黒光りする立派な梁や柱、時代ものの落ち着いた調度品に囲まれていると、河畔の賑わいが嘘のように静かな時間が流れていく。

これらの部屋が、籠もることを楽しむ空間だとすれば、今春新たに誕生した「ゆの間」「西の間」「乾の間」の3部屋は、外の眺望を楽しむ空間。倉敷川に面した座敷部分を改装したもので、どの部屋の窓からも、川のある風景を間近に見渡すことができる。人気の少ない朝方や、美観地区がライトアップされる夜間など、ずっと眺めていても見飽きない美しさだ。

部屋や館内のしつらえに、倉敷の現代の手仕事をさりげなく溶け込ませていることにも心惹かれる。アンティークの椅子に置かれたノッティング、地元の窯元の急須や湯呑み、朝方に新聞を入れて届けられるい草のバッグ——。「美しい町並を保存していく精神とともに、ものづくりの精神もこの町に息づいていることを知っていただければと思っています」。女将の言葉に頷きつつ、ここは倉敷の歴史と文化が凝縮された希有な宿なのだと、改めて実感した。

聖地で世界にひとつのジーンズを

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今春、倉敷市が文化庁から「日本遺産」に認定されたことをご存じだろうか。日本遺産とは、地域の歴史的特色や文化財にまつわるストーリーを国が評価するもので、倉敷市は、綿花から始まる繊維産業発展の物語が評価されての認定となった。干拓地から生まれた綿花栽培が明治時代に紡績業に発展し、大原家が中心となって町の発展や保存に尽力したという流れは、先述した通り。さらに加わるのが、“国産ジーンズ発祥の地”というストーリーだ。

舞台となるのは、倉敷市の南東部にある児島。綿花栽培とともに機織りが栄えたこの地では、明治時代は足袋、大正から昭和にかけては学生服の生産で全国トップシェアを誇った。戦後は需要が落ち込んで苦境に立たされるが、豊富な原料と高い技術を活かして、1965(昭和40)年に国内初のジーンズ生産を開始。染めや縫製、加工工場だけでなく、地元発ブランドも次々生まれ、児島は日本のジーンズの聖地と言われるまでになった。

「ベティスミス」も、そんな児島発ブランドのひとつ。62(昭和37)年にジーンズメーカーとして誕生した老舗で、70(昭和45)年、国内初のレディースジーンズを展開し、デニム業界に進出。アウトレット、縫製工場、体験工場、ジーンズミュージアム——。現地を訪れると、テーマパークさながらの多彩な建物群が、広い敷地に点在していることに驚かされる。

「きっかけは、小学校の社会科見学で、工場をお見せしたのが好評だったこと。もっと詳しくジーンズのことを知ってもらおうと、歴史を辿る資料館としてミュージアムを作ったのが最初です」と、常務取締役の西山一二(かずじ)さんは語る。ミュージアムは全国から見学者が訪れるほど大好評となり、その後も時代のニーズに合わせて、施設やサービスを拡大していったという。

とりわけ、2003年開始のオーダージーンズは、国内外で熱い支持を集めている。生地やパーツを選べるのに加え、綿密なフィッティングからパターンを作ってデザインを起こすという、きめ細かなフルオーダーは業界初にしておそらく唯一。「わざわざ児島までお越しくださるお客さまのために、専門の職人達が心を込めてお作りします」と西山さん。世界にひとつのマイジーンズをあつらえて、出来上がりまでの1カ月を楽しみに待つというのも旅の醍醐味だ。

奥深き「藍」の美しさに魅せられて

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繊維の町・児島には染工場も多いが、中でも手染めにこだわり、藍やインディゴの美しい品々を生み出しているのが「高城染工場」だ。手作業で回数を重ねてじっくり染めることで、色がしっかり定着するのだという。

「同じように染めても、季節や天候によって微妙に色が違ってくる。そこが難しくもあり、おもしろいところです」と語るのは、4代目の角南(すなみ)浩彦さん。もともとレディースのパターンを学んでいたことから、レディースウェアを中心に、暖簾や小物などを一つひとつ染め上げている。工房の隣にはショップが併設され、シンプルで着心地のよさそうな洋服がずらり。クリアな濃紺のインディゴもいいが、わずかに黄味がかった藍の奥深さは格別だ。「着ているうちに、少しずつ色落ちしていく変化も楽しめますよ」

続いて、工房での染め作業を見せていただいた。長い布地を折り紙のように畳み、自転車用のゴムチューブで数カ所を縛るという独自の絞り染めだ。藍の液に浸して取り出した直後は緑色だが、空気に触れると酸化して青くなる。一部のチューブを外してもう一度浸した後、すべてのチューブを外して水にさらす。水にさらすことで均一に空気が入り、ムラなく仕上がるそうだ。水からあげて広げられた布には、濃淡の藍の模様が鮮やかに現れていた。魔法のような手業に、ただただ感嘆。「染めは毎日していますが、広げて干すたびに、色が本当にきれいだな、と。この仕事に就けて幸せだと思う瞬間です」と語る角南さんは、商品以外の服の染め直しにも応じてくれるという。

ていねいな手仕事、使い手へのきめ細かな配慮。倉敷の日本遺産のストーリーが意義深いのは、背景にこうしたものづくりの精神が息づいているからなのだろう。

高城染工場

工房の隣のショップには、シャツやチュニック、ワンピースなどのレディースウェアが並ぶ。毎年2回、新作も登場。

高城染工場

1915(大正4)年創業の染色工場。工場の一角に、NYでテキスタイルを学んだ店主による衣類やスカーフを販売するレディースショップも展開。こだわりの一枚を手に入れたい。

住所:岡山県倉敷市児島下の町7-2-6
電話:086-472-3105
URLhttp://www.takashiro.info/

たかせ ゆきこ◎富山県生まれ。ライター。インテリア雑誌編集部を経てフリーランスに。デザインやカルチャー、旅、食の分野をメインに活動中。

えびす しん◎1969年大阪府生まれ。写真家。京都精華大学芸術学部テキスタイルコース卒業。工芸、料理などの手仕事や人物撮影を多数手がけ、雑誌や広告などで活動中。

moment 2017年 9/10月号より