moment 2017年1/2月号
日本紀行 東京都 台東区

上野公園とモダニズム建築逍遥

文・山口由美 写真・星 武志

2016年7月、東京初の世界文化遺産が誕生した。上野公園の国立西洋美術館である。モダニズム建築の三大巨匠のひとり、ル・コルビュジエ設計による日本唯一の建築だ。上野公園や国立西洋美術館に遊ぶうちに、世界文化遺産に登録された経緯、ル・コルビュジエに学んだ日本人弟子との関係、そして上野という土地がもつ魅力が浮かび上がってきた──。

国立西洋美術館日本唯一のル・コルビュジエ作品の特徴

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モダニズム建築の巨匠の中で、ことさらにル・コルビュジエが20世紀を代表する建築家とされるのは、車などの工業製品と同様に、建築にもプロトタイプ(型)を考えた先進性にあるのではないだろうか。

美術館にこれをあてはめたのが「無限成長美術館」である。美術館構想の原点となったのは1929年、ジュネーブに計画された総合文化センター「ムンダネウム」の中核施設、世界美術館だった。ルールを決めておけば増築可能。無限に成長していくという発想の美術館は、しかし、第二次世界大戦の影響もあり、ヨーロッパで実現することはなかった。それが、かたちになったのは、インドにおける2例と、そして、日本の国立西洋美術館だけである。

戦後、松方コレクションがフランスから寄贈返還されることが決まり、これを所蔵展示する美術館として設立されたのが国立西洋美術館である。

では、なぜ設計者として、ル・コルビュジエが選ばれたのだろう。同館主任研究員の寺島洋子さんによれば、3つの理由があるという。

まず、ル・コルビュジエには、先にあげた「無限成長美術館」の構想がかねてからあったこと。次に、日本には彼の弟子がいてサポートが望めたこと。そして、彼がフランスで著名な、第一級の建築家であることだった。

「日本の建築家に依頼するという案もあったそうです。しかし、最終的には、ジョルジュ・サールというルーヴル美術館の館長の推薦が決め手になったようです」

そして1955(昭和30)年、ル・コルビュジエは初来日する。上野の現場には5回視察に訪れた。だが、限られた滞在の中で、日本で感じたものを設計に落とし込むまでには至らなかった。仕上げの美しさや日本の材を用いるなど、日本的な繊細さを反映させたのは、建設に携わった3人の弟子と施工側の丁寧な仕事によると寺島さんは言う。

「たとえば、セメントを流し込む枠を姫小松で作って、表面に木目を写し取るなど、海外では見られないことです。ル・コルビュジエの特徴は、むしろブルータリズムと言われる荒々しさなのですが、彼は完成した本館の写真を見てその仕上げの美しさに賛辞を寄せています」

3人の弟子とは、1928年から30年まで師事した前川國男、年齢は最年長だったが、次いで1931年から一時帰国をはさんで39年まで師事した坂倉準三、そして戦後、1950年から52年まで師事した吉阪隆正である。構造、設備は前川、建築を坂倉、吉阪が担当した。戦後になって師事し、とりわけル・コルビュジエに可愛がられていたという吉阪が通信役を担った。

よくル・コルビュジエの設計図には寸法がなかったと語られるが、平面図と立面図と断面図だけで、施工のための構造や電気関係の詳細な図面がなかったことに、都市伝説的な尾ひれがついたものらしい。

こうして1959(昭和34)年に誕生した国立西洋美術館は、ル・コルビュジエの美術館を代表するものとして、2016年、世界文化遺産に登録されたのである。

世界文化遺産登録までの道のり

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今回、世界遺産となった「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」は、日本の国立西洋美術館ほか、世界7カ国、17カ所におよぶ。3つの大陸をまたぐ作品群がひとつの世界遺産になったのは初めてだ。20世紀の建築が世界遺産に登録された例は、これまでもあったが、スペイン、バルセロナに作品を残したアントニオ・ガウディのように、ひとつの国や地方に根ざした建築に限られていた。

前例のないプロジェクトは、ル・コルビュジエの拠点、フランスでスタートしたが、それは2度の延期を含む、足かけ15年の長い道のりだった。

日本における最初の難関は、重要文化財の指定だった。世界遺産は行政による保存・保全の保証が必要で、そのためには前提としてその国の文化財法で守られていなければならない。しかし、1959年竣工の国立西洋美術館は、計画が動き始めた2002年当時、まだ43年しかたっておらず、おおむね50年以上を条件とする重文の基準を満たしていなかった。このため、しばらくプロジェクトは膠着状態になってしまう。

転機となったのは2006年、前年に国立西洋美術館の館長に就任した青柳正規さんが、世界遺産の登録に向けて積極的に動き出したことだった。

開館当時、中学生だった彼が見たピロティの面白さは忘れられない記憶だという。ピロティとは、柱だけで支えられた1階部分。ル・コルビュジエの建築を特徴づける要素のひとつだ。

「館長としてル・コルビュジエの建物を後世に残したいと感じたんです。就任2年目に世界遺産にする話が持ち上がり、建築委員会を立ち上げてね。前例がないことだと周囲は本気にしていなかったから、かえってファイトがわいて、なんとしても世界遺産にしてやろうと思ったんですよ」

そして翌年、森美術館で開催されたル・コルビュジエ展の開幕記念シンポジウムの席上、青柳さんは「わが美術館を世界遺産にします」と大胆にも宣言したのだった。

懸案だった重要文化財の問題も動き出す。実は、登録文化財には「竣工後50年」と明記されているが、重要文化財にはその記述がなかった。解釈の裏を読んで動き、重文に指定された。

地元も大いに盛り上がったが、2009年の結果は情報照会。1度目の延期だった。それから2年、2011年に2度目の推薦書を提出するが、記載延期。「近代建築に大きな影響を与えたのは、ル・コルビュジエだけではない」というのがユネスコの諮問機関、イコモスの主張だった。

突破口となったのは、情報や技術が国を越えるようになった20世紀という時代に視点をあて、ル・コルビュジエをとらえなおしたことだった。世界各地に作品があることは、20世紀のモダニズム建築の大潮流が大陸や国境を越えていった証でもある。

国立西洋美術館で会った青柳さんは、「緊張感があるでしょう」と私たちに語りかけた。

「近代建築のトップランナーとして、最先端で闘い続けた。使命感も強かったんでしょう。ヨーロッパの堅牢な石造文化の中にあって、脆弱なコンクリートを使い、近代建築をやっていくことの緊張感は常にあったでしょうね」

ル・コルビュジエは、まさに20世紀という新時代を切り開いた建築家であり、それを評価されての世界遺産登録だったのだ。

東京文化会館国立西洋美術館と調和する理由

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国立西洋美術館と向かい合って建つもうひとつのモダニズム建築がある。それが東京文化会館だ。美術館の建築にも携わったル・コルビュジエの弟子、前川國男の作品である。

東京に本格的な音楽ホールを設立したいという意見書が最初に出されたのは、国立西洋美術館のプロジェクト開始より早い1952(昭和27)年のこと。サンフランシスコ講和条約の年だった。

それはやがて「ミュージック・センター設立懇談会」という組織になる。もともと音楽好きだった前川は、具体的な設計案が持ち上がる以前から、メンバーのひとりだった。

1956(昭和31)年、東京開都500年の記念事業としてミュージック・センター建築構想が選ばれ、計画はにわかに具体化する。そして、前川が正式に設計者に決定した。

隣接して工事が進んでいた国立西洋美術館と、素材や構法、建物のスケールや寸法の体系をあわせることで、師と弟子の建築は、連続性と緊張感のある関係を築いていった。

前川は、最もボリュームのある大ホールを美術館から最も離れた敷地の南西側におき、建物全体にコンクリートの大きな屋根をかけて、軒の高さを美術館にそろえている。ホールの外壁に採用された大理石の砕石を埋め込んだコンクリート板も美術館の外壁にならったものだ。

こうして国立西洋美術館竣工の2年後、上野の桜が舞う1961(昭和36)年4月、東京文化会館は開館した。

美術館と音楽ホールが一体となって存在する。それはル・コルビュジエが「無限成長美術館」の原点となる「ムンダネウム」で示した総合文化センターの考え方を一部、実現するものとなった。当初、彼の設計図には、美術館だけでなく、「総合造形芸術のための企画・巡回パビリオン」と「不思議の箱」と名づけられた劇場、および野外劇場が計画されていたという。

東京文化会館は、当時、日本には前例のなかった、音楽だけでなくオペラやバレエも上演できる本格的なホールだった。それを可能にしたのが可動式の音響反射板だ。また大ホールの両脇にある音響拡散体も、NHK技術研究所の協力を得て創られたもので、同時に彫刻家、向井良吉による芸術作品でもある。丸っこい図柄を組み合わせた独特な造形は、火山が爆発する寸前、大地が亀の子状に地割れしたイメージを抽象的にデザインしたものだとか。

客席は、赤を基調に黄色や緑、青などがアットランダムにちりばめられた華やかな色使い。お花畑をイメージしたもので、リハーサル時など無観客でも演者の気持ちを盛り上げてくれるという。

都内に多くの新しい音楽ホールが生まれた今でもなお、東京文化会館は、音響の良さと独特の雰囲気から、アーティストからの指名も多い、人気のホールであり続けている。