moment 2016年 11/12月号
日本紀行 愛媛県 松山市

松山に眠る秘話探訪

文・高瀬由紀子 写真・竹崎恵子

画家・山口晃を迎え、道後温泉を舞台に開催されるアートイベントが集客に一役買う一方、能が盛んな松山には知られざる伝統芸能秘話が。 “文学”だけではない松山の一面に触れる旅へ。

  • 威風堂々たる佇まいの、道後温泉本館。夜になると、宿の浴衣姿で入浴に訪れる人も。増築を重ねた棟が連なる姿は、貫禄たっぷり。

  • 「飛行機百珍圖」は、道後温泉本館の「神の湯2階席」の床の間に展示。歴史ある空間とのコラボを楽しみたい。

  • 異なる時代、地域の風俗が入り交じった世界に惹き込まれる「飛行機百珍圖」(左)。湯上がりに浴衣姿で涼む情緒溢れる光景(右)。

  • 「大和屋本店」にある能舞台「千寿殿」。宮大工の手で1996年に完成。東京・国立能楽堂の造りがそのまま再現されている。

  • 2010年、東雲(しののめ)能復活後の初回公演で披露された演目「高砂」。東雲神社に奉納されている貴重な面装束が用いられ、大好評を得た。

昨年、愛媛県・松山の観光客数過去最多に一役買ったのが道後温泉を舞台に開催されるアートイベントだ。
今年は画家・山口晃を迎え、アートの力で道後を盛り上げている。一方、能が盛んな松山には知られざる伝統芸能秘話が。
明治期、“十五万石には過ぎた代物”と言われた能にまつわる名品の散逸を防ぐべく奔走した松山人がいた──。
“文学の街”だけではない松山の一面に触れる旅へ。

“道後アート”で温泉街の新たな魅力を発見

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歴史ある温泉街が、先端のアートに染まる。日本屈指の名湯・道後温泉で、近年大きな話題を呼んでいるのが、街ぐるみのアートイベントだ。

2014年、道後温泉本館改築120周年を記念して、街の新たな魅力を発信していこうと、年間を通じたアートフェスティバルを開催したのが始まり。国内外のアーティスト達の作品が、道後温泉本館を始め、ホテルや旅館、街中を鮮やかに彩った。
「道後は昔から、新しいものを受け入れるのに寛容。もてなしを大事にする温泉地ならではの文化だと思います」
こう語るのは、道後アートプロジェクト代表の松波雄大さん。老舗旅館の当代達も、アートツーリズムを盛り上げたいと、積極的に協力してくれたという。翌2015年は、写真家・映画監督の蜷川実花を迎え、街が蜷川ワールド一色に。若い女性や外国人など、客層が一気に広がった。

そして3回目となる今年のメインアーティストは、画家の山口晃。道後温泉本館の休憩室に入ると、迫力の「飛行機百珍圖」が出迎えてくれた。現在・過去・未来が渾然一体となった絵の中には、機内でお湯に浸かる人の姿もあり、思わずニヤリ。風呂上がりに畳でくつろぎつつ、山口画伯の不思議な世界に浸るのは極上の時間だ。
こうした山口作品を幾つもの宿で見られるほか、松山を舞台に小説『坊っちゃん』を書いた夏目漱石さながらに、“よそもの”視点で道後の各所を描き下ろした「道後百景」が、ガイドマップとして登場。
さらに、道後温泉絵図や、電柱をモチーフにした立体作品「要(かなめ)電柱」は、「街の遺産として残せるものを、とお願いしました」と松波さん。こうして作品がアーカイブされていくにつれ、“アートの街”としての道後の魅力も、確固たるものになっていくに違いない。

道後温泉本館の完成に一役買った狂言の上演

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威風堂々たる風格が漂う、三層楼の木造建築。道後アートの舞台である道後温泉本館は、今も昔も人びとを惹き付けてやまない街のシンボルだ。この建物には、今日の賑わいの礎となったエピソードがある。
約3000年の歴史を誇る道後温泉だが、温泉地の規模は小さく、明治半ばの湯屋は老朽化していた。多くの人を呼ぶには、100年後まで他が真似できないものを造らないといけない。こうした熱い思いで本館改築を計画したのが、当時の道後湯之町町長だった伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)だ。町の財政難の中、なんとか銀行から融資を取り付け、1894(明治27)年に本館の「神の湯」が竣工するも、「霊(たま)の湯」などのさらなる施設増築には、とうてい資金が足りなかった。
返済期限も迫り苦境に陥った伊佐庭は、一計を案じる。松山巡業に来ていた著名な狂言一座を呼び、銀行の頭取達を街の能舞台での上演に招待したのだ。演目は「三十日(みそか)囃子」。大晦日、借金に苦しむ男の元に貸主が返済を迫りにくるが、一晩中笛や太鼓、鼓などのお囃子に付き合わせ、結局ほうほうの体で帰らせたという話。機知をもって借金返済をやり過ごす内容に苦笑しつつも、伊佐庭の胸の内を理解した銀行側は快く資金援助に応じたという。

町おこしへの情熱、芸能に対する理解。こうした文化的な土壌は、この地に古くから根付いていたのだ。

松山人の想いが受け継がれた“東雲さんのお能”

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時代をさらに遡ること200年余り。江戸時代初期から、松山藩は能の伝統を育んできた。能は幕府が奨励した武士の芸能であり、儀礼には欠かせなかったうえ、主従間のコミュニケーションツールとしても重んじられた。
松山でも、お抱え能役者や能をたしなむ武士による「藩能」が大いに栄え、かつては松山城の二之丸や三之丸にも能舞台があったという。藩主自ら能に興ずることもしばしばで、四代藩主・松平定直が、五代将軍・徳川綱吉の御前で舞を披露したという記録も残っている。

維新後、佐幕派だった松山藩は、朝廷から多額の賠償金献納の命を受け、資金工面に苦心する。それから3年後、藩主の東京移住を機に、藩所有の面装束の一部が払い下げられることになった。これを知った元藩士で能愛好家の池内信夫(高浜虚子の父)と歌原良七(正岡子規の母方の大叔父)が中心となり、藩の名品散逸を防ぐべく買い占めに奔走する。とはいえ、“十五万石には過ぎた代物”と言われたほどの名品揃い。幾度も勧進能を催し好評を得たが、支払いは追いつかなかった。最終的に、旧藩主の松平家改め久松家に救済を求めたところ承諾され、難を逃れた面装束類は、藩祖の松平定勝を祀る東雲(しののめ)神社に寄付されることとなった。
「この久松家の恩に感謝し、明治初期から東雲神社で能が奉納されることになりました。それが、今日“東雲さんのお能”として親しまれている神能の始まりなのです」と、宮司の田内逸知氏は語る。
「正月3日の祝いの儀『松囃子』のほか、春と秋の年2回催され、能への造詣が深かった俳人の高浜虚子が演者を務めたこともありました」

その後、戦災などにより中断の時期があったものの、多くの地元ファンの声を受け、2010年に満を持して復活。実行委員会の会長に久松家現当主の久松定智氏、シテ方(主役)に松山藩お抱え能役者の子孫である宇髙通成(みちしげ)氏を迎え、境内の舞台で寿ぎの演目「高砂」が披露された。以降、東雲能は桜咲く4月に毎年開催され、人びとを幽玄の世界に誘っている。先人達が守り抜いた松山の能文化の伝統は、脈々と受け継がれているのだ。