moment 2015年 7/8月号
日本紀行 山口県 萩・下関

維新の歴史が息づく町で

文・鹿田吏子 写真・笹山明浩

2015年7月に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産への登録が決まり、さらに注目が集まる山口県萩市。なぜこの小さな町が近代日本を牽引する人材を輩出したのか。その足跡を求め、夏みかんの香漂う城下町を歩く。

  • 萩地域の南東部にある田床山の展望台から萩市街を一望する。区画割りなどは昔のまま。

  • 毛利輝元が指月山に築城した萩城。現在は石垣と堀の一部のみが残っている。

  • 萩藩校、明倫館の武術場である有備館。坂本龍馬も他流試合に訪れた。

  • 高い土塀の間を直角に曲がった道筋の「鍵曲(かいまがり)」。

  • 指月公園内の志都岐山(しづきやま)神社にはためく毛利家の家紋。

2015年7月に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産への登録が決まり、さらに注目が集まっている山口県萩市。
なぜこの小さな町が近代日本を牽引する人材を輩出したのか……。
その足跡を求めて夏みかんの香漂う城下町を歩けば、幕末の志士たちが、今にも飛び出してきそうな錯覚にとらわれる。


Access
山口宇部空港から萩市内までは車で約80分、萩・石見空港から約70分、JR「新山口駅」からは約55分。萩市内から青海島までは約30km、約40分。萩から下関までは中国自動車道経由で約90km、約90分。
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世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」とは

幕末〜明治期、日本は独自に西洋の技術を導入しながら製鉄・製鋼、造船、石炭産業を近代化し、後の工業立国の礎を築いた。2015年7月、世界文化遺産として登録された「明治日本の産業革命遺産」は、産業近代化を担った山口県・萩や九州ほか全国8県11市にある23の構成資産から成る。とりわけ萩は、幕末にいち早く産業近代化を推進した地として萩反射炉、恵美寿ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾の計5カ所が構成資産として登録された。詳細は萩観光協会または「明治日本の産業革命遺産」へ。

古地図で歩く、萩の城下町

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安芸から長州への国替を余儀なくされた毛利家は、新たな築城の候補地として山口、防府(ほうふ)、萩を幕府に上申。幕府が指定したのは、最も辺鄙な場所にあった萩だった。そこで、標高143メートル、まわりは湿地帯という指月(しづき)山麓と山頂に城を定め、埋め立て作業に手こずりながら1608(慶長13)年、4年をかけて萩城(別名指月城)が完工した。

それから約260年。長州藩の城下町として萩は逞しく発展し、特に江戸末期から明治にかけて、維新胎動の地となってゆく。萩城の天守閣は明治期に解体されてしまったが、現在も庭園や石垣に当時の面影を見ることができる。ちなみに萩では、自宅の窓や庭から指月山が望めることはひとつのステイタスだという。指月山は、“長州人”としてのアイデンティティを実感させてくれる存在なのだろう。

城跡の周囲は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている堀内地区で、毛利家重臣の旧屋敷が並ぶ。見上げると、あちこちの土塀越しに夏みかんの木が顔を覗かせている。維新後、職を失った士族たちは空き地に夏みかんを育て、糊口をしのいだという。また、夏みかんの栽培には風よけの塀が有用だったため、萩の町並みを守ることにも繋がった。

地元ボランティアガイドの方から「萩は今も古地図で歩ける町」と聞き、博物館で入手した古地図を広げてみた。区画割りはもちろん、敵の侵入を防ぐために造られたクランク状の「鍵曲(かいまがり)」もそのまま。町歩きにさらなる楽しみが加わった。

地図を片手に堀内地区の東、豪商や藩士らが住んだエリアへ向かう。藩主が参勤交代の際に通った御成道(おなりみち)が延び、横丁には美しいなまこ壁が見える。壁の主である菊屋家は、財政面で長州藩を支えた御用達の商家で、萩の町造りにも尽力した。この菊屋家住宅は藩の御用宅としても利用され、商人の家には珍しく美しい庭園や殿様専用の休憩部屋なども残る。主屋には、伊藤博文からのアメリカ土産というセット・トーマス社の柱時計が今も時を刻みつづけていた。

菊屋家住宅から徒歩5分圏内には、高杉晋作誕生地と木戸孝允の生家、小田村伊之助(楫取素彦/かとりもとひこ)の旧宅地、伊藤博文が小僧として預けられていた円政寺や、蘭学者・青木周弼(しゅうすけ)の旧宅などがひしめく。この辺りを散策するだけでも、幕末の萩がいかにパワーに満ち溢れていた場所であったかを感じずにはいられない。

明倫館と松陰先生

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幕末の萩になぜ数々の志士が誕生したのか。それは長州藩が教育に力を入れていたことも大きく影響しているだろう。藩の始祖とされる毛利元就は幼い頃から学問に励み、一代で中国地方を束ねて戦国時代の英傑と謳われた。2代藩主綱広は、藩の基本法「当家制法条々」の中に、「文武に励み、元就の掟を守る」という一文を加えた。そして5代藩主吉元が1718(享保3)年に創設した家臣の子弟教育のための藩校「明倫館」は、1867(慶応3)年の廃館まで多くの有能な人材を輩出した。

特に、幕末の13代藩主敬親(たかちか)の存在は大きいだろう。敬親は明倫館を拡大してさまざまな武術習練場を造ったのに加え、西洋の医学や蘭語、兵学を学ぶ学問所も備えた。11歳年下の吉田松陰の才を認め、藩主ながら彼の門下生として学んだことも有名だ。

萩にはまた、武士以外の身分の子弟を教える郷校(準藩校)や私塾、寺子屋が多かったことも見逃せない。最盛の幕末には2000もの私塾や寺子屋があったと言われており、教育の裾野の広さが窺える。

1839(天保10)年、わずか10歳で明倫館の教授となったのが、萩では今も「先生」と慕われている幕末の先覚者・吉田松陰だ。その足跡を求めて松本川を越え、椿東(ちんとう)地区(旧松本村)にある松陰神社を訪れた。清々しい境内には、松陰愛用の赤間硯と、父・叔父・兄に宛てた手紙を祀った御本殿とともに、アメリカ渡航計画失敗による投獄ののち、謹慎生活を送っていた実家の杉家旧宅、2015年5月に世界遺産登録勧告を受けた「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつ、松下村塾が残る。

松陰がここで講義を行ったわずか1年1カ月の間に、学んだ塾生はのべ92名。8畳一間の小さな空間で、彼らは国学、古典、時事問題、国際情勢について学び、日本の将来について熱く意見を交わした。「松陰先生はここで全員に同じことを教えたのではなく、一人ひとりに合った課題を与えて学ばせたといいます。また先生自身、常に日本人としてどう生きるべきかを考え、自らの生き様をもって塾生たちに“至誠"を示したのです」。松陰と同じ教育の道を経て神職に就いた松陰神社の上田俊成宮司が教えてくれた。

やがて松陰は「草莽崛起(そうもうくっき/民間の志ある人びとが立ち上がること)」を唱え、次々と倒幕計画を企むも捕えられ、江戸で処刑された。1859(安政6)年、30歳だった。

萩と瀬戸内海側の防府を縦断する萩往還は、江戸への参勤交代のために開かれた道。この街道沿いに萩城下を一望できるポイント「涙松」がある。これを過ぎると、もう萩の町は見えなくなる。江戸へ送られる途上、松陰はここで駕籠から降ろしてもらい、「かえらじと 思いさだめし旅なれば ひとしおぬるる 涙松かな」という歌を詠み、二度と萩の地を踏むことはなかった。

北門屋敷

Where to Stay in HAGI

北門屋敷

国の重要伝統的建造物群保存地区にある唯一の宿。往時の面影を残す表門をくぐると、ヨーロッパのアンティークが配された洋室や庭園が現れ、そのギャップもまた楽しい。萩の食材を中心とした正統派和食にフレンチのエッセンスを取り入れるなど、食にも粋な遊び心が隠れている。歴史散策を楽しんだ後は、季節の木々に囲まれた温泉でくつろげる。

住所:山口県萩市堀内210
アクセス:山陽自動車道・防府東I.C.から約80分、中国自動車道・美祢東JCT〜小郡萩道路・絵堂I.C.から約20分、JR「新山口駅」から送迎あり(要予約・無料)
駐車場:15台
URLhttp://www.hokumon.co.jp/

400年の時を経た「萩の七化け」

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幕末に思いを馳せながら萩を歩いていると、行く先々で「萩焼」の看板に出合う。萩と言えば、「一楽二萩三唐津」と、茶人たちに愛されてきた焼物の町。ほんのりと色づいた枇杷(びわ)色の茶碗が頭に浮かぶ。

萩焼の起源には諸説あるが、毛利輝元の萩入城に従って移ってきた高麗の陶工、李勺光・李敬兄弟が、東光寺に近い旧松本村に家屋と薪山を賜り、藩の御用窯を担ったのが始まりとされている。その後李敬は初代藩主秀就より「髙麗左衛門」を任じられ、以来400年以上、坂窯は一度も移転することなくこの地で作陶を続けている。

歴代使われてきた窯が残る坂窯を訪ね、初代から13代までの茶碗を見せていただく機会を得た。ずらりと並んだ歴代の茶器は、ごつごつと無骨なフォルムのものから滑らかな手触りのもの、金の絵付けが施されたものまで作風はさまざま。「陶工は職人ですので、これらの作品の多くは、注文者の好みに応じて作られたものだと思います」と語るのは、窯を案内してくれた坂悠太氏。昨年他界した13代の子息で、現在修業中の27歳だ。

貫入(釉薬の表面に現れるひび)に茶しぶが染み込み、使うたびに風合いが変わっていく“七化け”の味わい深さ。当代茶人の心を掴んだであろう“親しみ"と“わび"を感じさせるものばかりだった。「維新で藩の後ろ盾がなくなった後も、先代たちが守ってきた窯です。今後もその歴史を紡いでいきたい」。若き陶芸家は静かに、しかし力強く語ってくれた。

今、萩焼と言えば、坂窯に代表されるような歴史ある窯元の作品だけでなく、「萩で作られた器」も指すようになった。菊屋家住宅の向かいにある「萩焼・うつわ 彩陶庵」では、萩を代表する作家約30名の作品を紹介し、その魅力を伝えている。まずはここで器を見、話を聞き、気になった窯を訪ねてみるのもおすすめだ。

もうひとつの舞台、下関へ

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旅の終わりに、長州では萩と並ぶ歴史の舞台である下関へ足を延ばした。松陰亡き後、その意志を受け継いだ高杉晋作は、1863(文久3)年、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4国との間に起きた下関戦争に参加。その後奇兵隊を結成するなど維新に向けて突き進んだが、29歳で肺結核のため下関の地に伏した。そのわずか半年後に大政奉還が行われ、松陰、晋作ら幕末の志士が目指した新しい時代が幕を開けた。

時は流れて1895(明治28)年、かつて高杉晋作と同時期に松下村塾に学んだ伊藤博文は、数度の海外渡航を経て初代内閣総理大臣となり、下関の割烹旅館「春帆楼」で日清講和会議に臨んだ。

なぜ講和会議の会場としてこの場所が選ばれたのか。それは、窓の外に関門海峡を行き交う日本の軍船が目に留まり、相手国に脅威を与えながら有利に交渉を進められると考えられたからだという。当時の講和会議場の再現や、伊藤博文、李鴻章の遺墨は、春帆楼の敷地内に建てられた日清講和記念館で見学することができる。この時、歴史的外交の舞台となった下関は明治以降、山口を代表する港湾都市へと成長していった。

萩、そして下関。歴史の舞台となったふたつの町には、今なお生き生きと、当時の面影が息づく。過去と現在、2枚のフィルターを重ねて旅することで、その表情はさらに輝いて見えた。

しかだ さとこ◎1975年長崎県生まれ。ライター。タウン情報誌編集部を経て2005年よりフリーに。グルメ、人、祭りなどジャンルを問わず、九州各地を訪れ、取材・執筆を行う。

ささやま あきひろ◎1962年福岡県生まれ。写真家。九州デザイナー学院写真科卒業後、コマーシャルスタジオ勤務を経てフリーに。現在、福岡を拠点に旅行雑誌などで活動中。

取材協力:萩市商工観光部

moment 2015年 7/8月号より