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栃木へドライブ旅
なぜ栃木・益子焼は有名になったのか。濱田庄司が紡いだ民藝の美を訪ねて。

栃木県の益子といえば、陶器の街と思い浮かべる人も多いだろう。益子焼を全国区にしたのは2024年に生誕130年を迎える濱田庄司という一人の作家だ。益子を訪れ、民藝という概念で益子焼に新しい価値をもたらした濱田の素顔、民藝とはなにか取材をした。

Photo:Hiroaki Ishii
Edit & Text:Misa Yamaji(B.EAT)

濱田庄司はなぜ益子へ来たのか

栃木県・益子。都心からクルマで2時間弱も走れば到着するのどかな町だ。

高速道路を降りてしばらく走ると、昔ながらの街並みと美しい田園風景が迎えてくれる。

益子の町に行ったことのない人でも、「益子焼」という焼き物の名を耳にしたことはあるだろう。

益子の窯業の始まりは江戸時代後期と比較的新しい。きっかけは、笠間焼の職人のつながりと指導で、器作りが伝わったことだった。その笠間焼は信楽焼の職人によってもたらされたというから、益子焼は信楽焼にルーツを持つともいえる。

以降、窯業が盛んになった町では、問屋の注文によって職人たちが大徳利や水瓶など日用雑器を作り、品物は問屋を通して都心で売られたことから益子は焼き物の町として知られていく。

濱田庄司記念益子参考館。

しかし、盛んだった益子の窯業は明治、大正、昭和と時代が進むにつれ、その勢いに翳りが見え始める。

水道が整備されて水甕は必要なくなり、大徳利は一升瓶になり、土瓶はやかんになった。生活様式の変化から盛んだった窯業の雲行きが怪しくなってきたときに、益子にやってきた一人の男が、この町の産業に一筋の光をもたらしたのだ。

その男こそ、柳宗悦、河井寛次郎とともに民藝運動の中心人物だった濱田庄司だ。

昭和を代表する陶芸家として人間国宝にまでなった濱田が益子に来たのは30歳のとき。当時すでに陶芸界では気鋭の作家として名を馳せていた。バーナード・リーチと共同でイギリスのセントアイヴスに築窯したり、ロンドンで個展を開催したりと海外で大成功を収めて日本に帰国。沖縄での活動を経て、幼少のころから抱いていた“自然豊かな健やかな地でくらしたい”という思いを叶えるべく、益子に移住してきたのだ。

濱田友緒氏。

「濱田庄司が益子を知ったのは、東京高等工業高校(現・東京工業大学)窯業科で板谷波山に師事したときだと聞いています。板谷の工房で山水土瓶を見て興味を持ち、益子を訪ねて“いいな”と思った記憶がずっとあったようです」。そう、教えてくれたのは「濱田庄司記念益子参考館」館長であり、濱田窯で作陶する作家・濱田友緒氏だ。

「祖父とは私が10歳になるまで一緒にいました。非常に優しい人でしたね。木登りなんかしていると心配して怒られました。人に対してもいいところを見て褒める人で、いつもニコニコしていました。大胆な作風ではありますが、本人は優しく、繊細なところもあったと思います」と濱田庄司の素顔について語る。

作陶する濱田庄司。

人柄のよさは、益子へ引っ越した当時のエピソードにも見られるだろう。すでに濱田の名は業界では知られていたが、本人はそんなことはおくびにも出さなかった。イギリスから帰ってきても、そこにかぶれることなく、濱田は田舎のありのままの美しさを愛した。もくもくと日々の器を作る益子の町の職人に敬意を表した。最初は間借りをし、作陶をして少しずつ町の人たちと馴染んでいったという。

また、濱田庄司が益子に受け入れられた理由のひとつとして時代背景もあった。先に書いたとおり、濱田が移住してきた1930年は益子の窯業に翳りが見えてきた時代だ。いわゆる下手物(げてもの)と呼ばれる大量生産の日用雑器か、上手物(じょうてもの)と呼ばれる高価な工芸品の二極化となっており、職人たちが作る日常の生活雑器が売れなくなったのだ。

そこで濱田は作家として日常に使えるテーブルウェアを作り、銀座の鳩居堂や日本橋三越などで販売した。問屋に頼らず作ったものを売る道筋をつけ、それが評判を呼んだ。最初は“よそもの”として少し距離を置いていた地元の人たちにもその評判は聞こえてきた。すると、濱田のスタイルを真似て一点ものの器を作る人びとが増えていった。つまり益子の抱えていた問題に、一人の人間が解決の糸口を行動で示してみせたのだ。

濱田庄司の代名詞ともいえる、ひしゃくで釉薬をかける大胆な“流し掛け“の紋様が人気となると似たような器も多く出てきた。濱田は「仕事を真似しても一向にかまわない。真似が自分を超えたらたいしたもんだ」と、地元の人に教えを乞われれば喜んでやり方を教えたという。

こうした動きが、益子焼を日用雑器から個性と芸術性を備えた器へと引き上げていき、その名を全国に知らしめるものにつながっていったのだ。

白釉黒流描鉢。紋様はひしゃくで釉薬を流しながら描いている。

「民藝」とは1926年に柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司らが提唱した、日々のくらしで使う、手仕事から生まれた美しい品のこと。友緒氏は、それを“当時の新しい産業のカタチ”だったと語る。

「濱田庄司は訪れたイギリスでも産業革命後、職人が作った日用品が売れなくなり、手仕事が衰退していく様を目の当たりにして危機感を抱いていました。柳らと話していく中で、名もなき職人の手から生み出された美しき品々を“民衆的工藝=民藝”と名づけ、価値を提示する運動をしていました。各地をまわり、そうした品を買い集め販売もしていました。そういう意味では、濱田庄司は作家だけでなくプロデューサーともいえるでしょう」。

濱田庄司は世界各国を何度も旅し、各国の“民藝”を買い集め収集した。百貨店を巻き込み販売会をすると同時に、自分の気に入ったものも購入し古民家を改修した収蔵館に展示していた。その工芸品からインスピレーションを得て、自らもくらしの中に馴染む美しい器を作りつづけた。

現在、世界各国から収集した工芸品は「濱田庄司記念益子参考館」で見ることができる。

庄屋建築のゲストハウス。
ゲストハウス内から外を眺めて。館内の家具などもすべて国内外から濱田庄司が集めたもの。

ちなみに「濱田庄司記念益子参考館」は、広い敷地に建つ9つの古民家と登り窯などの建物群からなる。それらすべて濱田庄司が購入したものだというから驚きだ。

「祖父は収集癖があったのですが、古民家も収集物のひとつといえるかもしれませんね」と友緒氏。かつて濱田が購入し手をいれた古民家は20棟にもおよぶという。

「北関東には立派な豪農の古民家がありました。その美しさ、様式に惚れていたと思います。ライフスタイルの変化によって古民家は過ごしにくくなって手放したい人も増えてきた。そうなるとどこからか『濱田先生が買ってくれるらしいぞ』と風の噂がながれ、自然と相談が来ていたのだと思います。一度解体し、ときには別の古民家の板や梁などを使用して補修しながら敷地内に建てました」。

現在は、展示棟となっている長屋門、石蔵、ゲストハウスとして使っていた茅葺屋根の庄屋建築、濱田庄司が作業をしていた工房、登り窯を訪問することができる。どの建築物も非常に美しい。入り口近くの長屋門には濱田庄司の作品や親交のあったバーナード・リーチや河井寛次郎の作品、石蔵には中国、台湾、メキシコ、中近東、ヨーロッパの各地から集められたさまざまな時代の工芸品や家具が展示され見応えがある。

立派な庄屋建築の茅葺き屋根の建物は、濱田庄司が内装の一部を改築した。自分でデザインしたランプを設置し、親交のあったチャールズ・イームズから贈られたイームズチェアがさりげなく置かれている。風が気持ちよく抜ける建物内では喫茶も可能。コーヒーを飲みながら一息つけば、まるで濱田庄司にもてなされている気持ちになるだろう。

濱田庄司の工房。

隣の工房では濱田庄司が愛用していた蹴ロクロが並び、ときが止まったようだ。使っていた粘土や型も残っていて往時を忍ぶことができる。

ここで濱田庄司は、濱田窯として日常的な価格で販売するテーブルウェアを自らデザインし、それをもとに職人に作らせた。一方、作家としてクリエイティブな“作品”も精力的に制作した。益子の素朴な美しさを大切にし、職人たちと並んで日々器と向き合った濱田庄司の気配が今も残っている。

今もなお進化する益子焼とは

ところで、益子焼の定義とはなんだろうか。そう疑問に思い聞いてみると、益子焼の定義はそこまで厳格に決まっていないと友緒氏は話す。

「益子の粘土、益子の釉薬を使うものを益子焼としていますが、今はわりとそのあたりも自由ですね。もともと信楽焼をルーツに持つ益子焼ですが、首都圏からのニーズに応えて自由で素朴な雰囲気を生かしたスタイルとなっています。今は益子で作っているものを益子焼と呼んでいますね」。

現在、益子には400近くの窯があるという。外部からの移住組も多く、それぞれスタイルは自由だ。その風通しのよさが益子のよさだろう。作られる器も日常のシーンを温かく彩るようなものが多い。

濱田窯で器を作る濱田友緒氏。

「濱田庄司もさまざまな手法で器を作っていました。例えば柿釉は、益子の赤い釉薬に手を加えて生まれた益子ならではの色でしょう。糠白釉に銅を混ぜた青釉もそうですね。そうした益子ならではの釉薬もよく使っていた一方、塩釉という13世紀のドイツで生まれた施釉技法など、新しい技法も積極的に取り入れて作陶していました」と友緒氏。

友緒氏自身も塩釉を使い作陶しているが、専用の窯が必要なため、今この技法を用いて器を作っているのは珍しいのでは、と話してくれた。

濱田友緒氏の作品。左から青釉白掛赤絵マグカップ、柿釉赤絵湯呑、藍鉄塩釉菱形偏壺。

友緒氏も、代々受け継がれてきたように日常の器のプロデュースは行うが、制作は職人に任せ、自身は個展のための作品作りを日々している。もともと彫刻や現代アートをやっていたこともあり、伝統的な技法に新しいことを組み合わせて作品にしている。

現在窯で働くのは、25歳の若者から、85歳までの7人だ。濱田庄司からつながる民藝の精神を、現代のくらしと新しい感性で紡いでいく濱田窯の商品は、町内のギャラリーでも販売されているので、益子を訪れたときには探してみるといいだろう。

登り窯の前で作業する職人たち。85歳の高根沢氏は60年間この窯で働く。

「年に2回ある陶器市のお祭りのようなにぎやかな益子を訪れていただくのもいいですが、普段の静かな益子にもぜひいらしてください。『民芸店ましこ」や『日下田愛染工房」など手仕事に触れられる店もたくさんあります」と友緒氏は語る。

民藝は今、再びブームだという。

日々使うものに“美”を見出し、丁寧にくらす。そんな生活を彩る器を見つけに、益子に出かけてみてはいかがだろうか。

濱田庄司記念益子参考館

住所:栃木県芳賀郡益子町益子3388
電話: 0285-72-5300
休館日:月曜(月曜が祝日の場合は開館し、翌日休館)、年末年始、展示替え休館年2回、ほか臨時休館あり
駐車場:あり
入館料:大人1,000円、中高生500円、障害者とその介護者1名 800円
URL:https://mashiko-sankokan.net/
*濱田窯は見学受付していません。

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