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京都・何必館キュレーター梶川由紀さんに聞く
北大路魯山人の人となりと魅力。なぜ人びとは魯山人に熱狂するのか。

2026年3月から4月にかけて放映されたNHK特集ドラマ『魯山人のかまど』が話題を集めた。妥協のない美意識ゆえ、周囲との摩擦が絶えなかったといわれる魯山人だが、同ドラマでは、気難しさの裏にある芸術への純粋な祈りや、人間味あふれる優しさに光が当てられた。本記事では、1981年の開館以来、国内屈指の魯山人作品を和の空間で紹介してきた京都・祇園の「何必館・京都現代美術館」の創設者である梶川芳友氏の長女で、キュレーターを務める梶川由紀さんにインタビュー。今なお色褪せない魯山人作品の魅力について語っていただいた。数々の逸話を切り口に、稀代の天才の知られざる素顔をひも解く。

Photo: Yukiyo Daido
Text:Shinobu Nakai
Edit:Misa Yamaji(B.EAT)

魯山人の書を梶川芳友氏がインドの古い布を用いてデザインし、額装した。

魯山人の原点と生涯を振り返る

北大路魯山人(1883年〜1959年)は、大正から昭和という激動の時代に、日本の「食」と「美」の概念を根底から覆した巨人である。あらゆる境界を軽々と飛び越え、全方位で類稀なる天稟を発揮した彼は、同時に、料理を芸術の域へと高めた稀代の美食家でもあった。しかし、その栄華の裏に広がるのは、闇と孤独に彩られた生涯だった。

1883年(明治16年)、魯山人は京都で生まれた。一説には、上賀茂神社に関係があったといわれる社家の家系に生を受けたそうだ。だが、出生を前に父は自死を遂げ、母にも拒絶されるという過酷な宿命。幼少期の彼は、いくつもの養家をたらい回しにされ、やがて木版師・福田武造のもとへと引き取られる。

だが、この福田家でのくらしこそが、天才の五感を揺り動かすこととなる。わずか6歳にして台所に立ち、炊事を手伝う日々。「どうすれば大人に褒めてもらえるか」「いかに手際よく調味できるか」―。生きるために巡らせた思考のなかで、「食材の命を見極める眼」が静かに養われていった。さらに、木版師である養父の背中を見つめながら、自然と文字や意匠の美を吸収していく。10歳を迎える頃には、地域の書道コンクールで賞を総なめにするなど、すでに神童としての片鱗を覗かせていた。

20代になって東京へ進出した魯山人は、書家としての第一歩を踏み出す。文字に命を吹き込むその筆跡はすぐさま注目を集め、同時に、「篆刻(てんこく)」の分野でも一躍、頭角を現した。

篆刻の見事さはもちろん、意匠の美しさも際立つ印章。

最高峰の茶寮、そして世界の「ROSANJIN」へ

そんな魯山人の名声を一躍不動のものにしたのが、東京・赤坂に誕生した伝説の会員制料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」の開設である。

財界の重鎮や数寄者たちが集う美食の聖地において、魯山人は自ら厨房に立って総指揮を執った。食材の吟味から料理の仕立て、さらにはそれらを盛りつける器の意匠にいたるまで、自身の美意識を徹底させたのである。「器は料理の着物」という彼の不朽の哲学は、この絢爛たる舞台で最高潮を迎えた。

しかし、至高の美を求めるがゆえの完璧主義と、妥協を許さぬ傲慢な立ち振る舞いは、周囲との間に埋めがたい致命的な軋轢を生んでいく。共同経営陣や出資者との激しい対立の末、1936年(昭和11年)、彼は自ら築き上げた美食の楽園から離脱するという憂き目に遭うこととなる。

楽園を追われた巨人が次に向かったのは、すでに北鎌倉の山懐に築いていた「星岡窯(ほしがおかがま)」であった。料理という一瞬の芸術から、土と炎という永遠の芸術への回帰。魯山人はここで、陶芸家としての活動に全精力を傾注していく。

芸術家として世界の頂点を目指す一方で、私生活において、彼はついに安息の地を見出すことはできなかった。一説には、結婚と離婚を繰り返し、最愛の我が子とも縁を切ったことも。妥協を許さない天才の激しさは、近づく者をすべて拒絶してしまう諸刃の剣でもあった。晩年の彼は、北鎌倉の美しい自然のなかで、静かな孤独の影に包まれていたという。

1959年(昭和34年)、76歳でこの世を去るまで、世間の権威に背を向け、ただ自らの美意識だけを信じて突き進んだ北大路魯山人。

時に人を傷つけ、時に深く愛されたこの「不世出の天才」の正体とは、一体何だったのか。

何必館・京都現代美術館「北大路魯山人」作品室。

始まりは、20代の芳友氏が出合った一膳の白ご飯

そんな魯山人という人を知るために京都・祇園の「何必館・京都現代美術館」を訪ねた。

創設者である、梶川芳友(かじかわ よしとも)館長は、魯山人に魅了されたひとりである。1981年(昭和56年)に美術館を開館し、北大路魯山人の作品を一般に公開するため、地下に作品室を設けた。単に名品を並べるだけの空間ではなく、魯山人の精神を現代に蘇らせるための、いわば聖域である。

そんな「何必館」のキュレーターを務める梶川由紀さんに、父・芳友氏と魯山人作品、そして魯山人の人物像について教えていただいた。

「父が最初に魯山人の作品に出合ったのは、知人に連れていってもらった料理屋でした。最後に出てきたご飯茶碗を手にしたとき、父は不思議な感覚を覚え、思わず女将さんに尋ねると、『これは魯山人さんという方の器ですよ』と教えていただいたそうです。そのとき、父が感じたのは、器が美しいという単純なものではなく、もっと根源的な「感覚」だったと聞いています」と由紀さんは言う。

その茶碗から白米を口に運んだとき、いつも食べているはずのご飯が、全く違うものに感じられ、器ひとつで、食がここまで劇的に変わるものなのかと、芳友氏の魯山人への興味はそんな体験から始まったのだという。

「織部木ノ葉」鮒鮨がよく映える。

最初の1点は織部焼の葉皿だった

20代の若さで魯山人の器がもつ凄みを体感した芳友氏。初めて手に入れた魯山人の作品は、鮮やかな緑の釉薬が美しい「織部木ノ葉(おりべこのは)」であった。
なぜ、数ある作品のなかから、あえて木ノ葉を象った皿を選んだのか。

「大昔、人類にとって食器の始まりは葉っぱだったはずだ。ならば、自分もその原点から始めよう―。父はそんな想いを抱き、手に入れたそうです」

「双魚絵平鉢」には、水を張って青紅葉を浮かべ、魚が泳いでいるように演出する。
遊び心がこもった魯山人の箸置き。

作品を通じて感じる魯山人の不器用さ

メディアやドラマの世界において、魯山人はしばしば「傲慢不遜な怪物」あるいは「狂気的な完璧主義者」としてデフォルメされがちだ。しかし、何十年にもわたり彼の作品と対話を続けてきた由紀さんの眼に映る人物像は、それとは異なる温かみを帯びている。

その最たる証が、彼が好んで作った小さな「箸置き」だ。そこには、思わずクスリと笑ってしまうような、無邪気な遊び心が詰め込まれている。一つひとつをじっと観察していると、世間に向けていたトゲの奥にある、繊細で、どこか寂しがり屋の温かい手跡が、じんわりと伝わってくるという。

「志野大鉢」に大胆に花を添えて。

一部からは「焼き物知らず」と蔑まれた、天才の圧倒的な万能力

とはいえ、そうした人間的な愛おしさを内包しながらも、ひとたび表現者としての足跡を辿れば、やはり彼は「万能の天才」だったと認めざるを得ない。

「青年期に加賀の山代温泉へ赴き、当代屈指の名工・須田菁華(すだせいか)の元で初めて本格的な作陶に挑むのですが、初期の作品からして、到底初めてとは思えないほどの完成度です。天才の呼吸が、最初から備わっていたのでしょう」

さらに驚くべきは、その表現の「横幅」の広さである。通常、陶芸家は、楽焼なら楽焼、備前なら備前と、ひとつの土、ひとつの窯の道を一生かけて深めていくものだ。しかし魯山人は、織部、信楽、志野、備前、磁器にいたるまで、ありとあらゆる技法と様式を貪欲に呑み込んでいった。

「当時の専門家からは、伝統を軽視する『焼き物知らず』だと激しく批判されもしました。けれど彼は、ひとつの職人技を極めることよりも、『料理の着物』としてふさわしい可能性を試したかった。果てしない好奇心と、それを形にしてしまうセンスと才能には、驚嘆させられます」

「つばき鉢」は、魯山人の才能と自由さを象徴するかのような作品。

つばきの大鉢に宿る、孤高の「獨歩」

魯山人が遺した膨大な作品群のなかでも、彼の苛烈な生き方と、権威に抗いつづけた魂を雄弁に物語る傑作といえば、楽焼の「つばき鉢」をおいてほかにないだろう。

「そもそも、楽焼に用いられる土は、きわめて脆く壊れやすい性質を持っています。本来ならば大ぶりの器を焼くのにはまったく向いていません。魯山人がこの規格外の大作を発表したとき、周囲の専門家や職人たちは『焼き物知らずの為せる技』と、こぞって揶揄(やゆ)したそうです」

けれど、稀代の目利きであり、古陶磁を知り尽くしていた魯山人が、そのリスクを知らなかったはずがない。彼は、セオリーなどという生温かい常識を、あえて無視したのだ。

芳友氏は、その著書のなかで、このつばき鉢のなかに息づく魯山人の本質を、畏敬の念を込めてこう記している。

「人は、常識にしばられ、自由を失う。あえて世の常識という規範に対して、魯山人は、石を投げ、摩擦を起こし、闘いを挑んでいる。この美しい大鉢には、類稀なる自由独歩の精神が息づいている」

誰かの模倣でもなく、過去の焼き物の焼き直しでもない。自らの内側からマグマのように次々と湧き上がってくる「美へのアイデア」を、抑えきれない衝動のままに、ただ夢中で形作る。その時間が、魯山人にとっての幸福だったに違いない。

1954年(昭和29年)に、欧米で展覧会を開いた際、ピカソを訪ねて芸術論を交わした。

世界の巨匠を「盗む」チャーミングな貪欲さ

生涯を通じて日本の伝統美を追求した魯山人だが、その眼差しは決して国内だけに留まらない。好奇心の塊であった彼は、海の向こうの伝統やカルチャーに対しても、きわめて敏感でオープンな感性を持っていた。

晩年にフランスを訪れた際、20世紀を代表する画家パブロ・ピカソを訪ねたエピソードがある。いざ対面の瞬間、長身で大柄な魯山人の前に現れたピカソは、思いのほか小柄で、魯山人は帰国後、ジャーナリストの質問に「小柄な男だった」と、軽口をたたいているが、ピカソは驚くほど気さくに彼を迎え入れた。

「ピカソから強烈な刺激を受けたのでしょうね。フランスから戻ったあとの作品を見ると、明らかにピカソから影響を受けたと思われる、モダンな幾何学模様を描いたお皿があるんです。私は、親しみを込めて『ピカソ皿』と呼んでいるのですが(笑)」

同時代の巨匠に出会い、刺激を受け、エッセンスをすぐさま自分なりの表現へとアブストラクト(抽象化)して器に焼き付けてしまう。そんなエピソードを知ると、彼がただの『気難しい偏屈なアーティスト』ではなく、人間味にあふれ、純粋な芸術の徒だったのだと、愛おしくなる。

根来の朱に織部の緑が美しい。

自分を重ねた「不出来な器」への、全肯定

北大路魯山人が生涯に遺した作品数は、ほかの陶芸家たちに比べても圧倒的に多い。世間はそれを、彼の早業(はやわざ)や多作ゆえだと捉えがちだが、由紀さんが明かしてくれた理由は、深く胸を打つものだった。

魯山人は、窯から上がってきた作品のうち、「失敗作」として叩き割ってしまうような不出来なものを、決して捨てようとはしなかったのだ。彼は「不具(ふぐ)ほどかわいい」と口に出していたという。「ちょっと出来が悪いからといって、自分の子を簡単には捨てられないだろう」と、話していたそうだ。

「傷があるのなら、逆にその短所を生かせばいい」

現に、亀裂や上がりの悪いものを焼き直し、逸品に生まれ変わった作品は多い。その思想は、彼に貼られたレッテルとは異なる、体温の通った愛情に満ちている。

完璧な均整を誇る名品だけが美ではない。むしろ、傷を負い、歪みながらも、唯一無二の輝きを放つ「不完全な傑作」たち。それらは、現代を生きる私たちに、不器用でもなお美に魅せられ、まっすぐに生きた人間・北大路魯山人の生々しい鼓動を今も伝えつづけている。

左:キュレーターの梶川由紀さん。右:何必館・京都現代美術館の最上階にある光庭。

魯山人のたくらみと出合う、豊かなひとときを

最後に、由紀さんは、魯山人と時空を超えてつながるための、とっておきのアドバイスをしてくれた。
「もし皆さんが、どこかで魯山人の器に出合う機会があれば、美術品として眺めるのではなく、使うという視点で、魯山人の仕掛けやたくらみが隠れていないかなと覗き込んでみてください。たとえ旅先での一期一会であったとしても、器の呼吸に触れ、想像力を働かせた自分なりの発見は、人生を美しく豊かに生きる力になるに違いありません」

梶川芳友氏の著書『魯山人への手紙』のほか、図録なども美術館で販売している。

何必館・京都現代美術館

住所:京都府京都市東山区祇園町北側271
ご紹介WEBサイト(京都市ミュージアム検索サイト):https://kyoto-museums.city.kyoto.lg.jp/museum/101/

お話を伺った人
梶川由紀(かじかわ・ゆき)さん

何必館キュレーター。
パリの「ヨーロッパ写真館(MEP)」開設に日本人キュレーターとして関わる。帰国後、何必館・京都現代美術館の写真部門を立ち上げ。以降、アンリ・カルティエ=ブレッソンやサラ・ムーン、荒木経惟など国内外の作家の展覧会企画や写真集編集、執筆を行う。2020年2月開催の「ロベール・ドアノー展」では映像制作に挑戦し、展覧会で上映。キヤノン主催の写真家オーディション「SHINES」、京都現代写真作家展「京都写真ビエンナーレ」で審査員を務めるほか、雑誌やWEBマガジンなどで執筆活動も行う。