
令和の生き方
京都・両足院の伊藤東凌氏に聞く。
「禅の格言から紐解く、人生100年時代の心の持ち方」
時代の流れが加速し、人や情報との関わり方が変わってきた今、健やかに自分らしく生きるための心の持ち方の大切さを感じている人も多いだろう。そんな時代の考え方を建仁寺派専門道場で修業後、15万人以上に坐禅を指導してきた、両足院の副住職・伊藤東凌氏に聞いた。現代を生きる私たちは、禅という古来の叡智からどのようなことを学べるのだろうか。伊藤氏にインタビューし、今を生きるヒントを探す。
Photo: Katsuo Takashima
Text:Shinobu Nakai
Edit:Misa Yamaji(B.EAT)

人生は無限の可能性にあふれている
――今回のテーマは「禅の格言から紐解く、人生100年時代の心の持ち方」です。
時代の変化は早くなり、人生は長くなりました。そんな時代を生きるヒントとなる言葉はありますか。
伊藤:そうですね。「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」という禅語があります。「何も持たない(固定されたものがない)からこそ、無限の可能性を秘めている」という意味です。世界は常に変化し、無限の可能性を秘めています。例えば、目の前にあるコップは、喉が渇いているときならば水を入れる容器に見えますが、植物を飾れば花瓶になり、猫にとっては遊び道具にもなるように、用途によって無尽蔵に変化します。これは、私たち自身にも当てはまります。私たちは「〜という役割だから」「〜という人間だから」と、自分を固定されたものとして捉えがちです。
しかし本来の私たちは、常に変化し、成長しつづける存在です。過去の自分に縛られず、常に新しい自分へと「脱構築」していくことで、無限の可能性を開いていくことができるのです。

――脱構築とは、どういうことでしょう。
伊藤:仏教の教えは、長い歴史の中でさまざまな解釈や概念が付加され、時には複雑になってきました。その中に、「脱構築」という考え方があります。「脱構築」とは、いわばこれまであったものを「破壊・分解」し、本当に必要なもの、本質的なものへと再構成していくこと。無駄なものをそぎ落とし、本来の姿を再構築していく。この運動の連続が「脱構築」です。禅の教えは、この「脱構築」そのものといえるでしょう。
この考え方を、私たち自身の人生に当てはめてみるとどうでしょう。私たちは、知らず知らずのうちに、教育や環境によって形づくられた自分として生きています。それは、必ずしも自分が本当に望んだ姿ではないかもしれません。ある意味、決められた枠の中で培われてきた可能性もあります。そういった自分自身に、「脱構築」という目線で向き合うことが、「ありたい自分」へ人生のハンドルをきることになるのです。

――私たちが「脱構築」するためにまずしなければいけないことは?
伊藤:「脱構築」の第一歩は、「気づき」です。自分の中で、どのような要素が意図せず作り上げられているのか。今この瞬間、本当に「これが一番だ」と思っているのか。この「気づき」はとても重要です。ただし、それをどう壊し、どう再構築していくのかが難しいところ。だから「分解」しながら問うのです。
「今の時代、自分にとって必要なものは何だろう?」「この価値観は、私の未来に何をもたらすのだろう?」と。自分への問いは、必ずしも言葉だけではありません。「何か違う」、「何か嫌だ」というような感覚的な違和感に正直になることも「問い」の一種です。禅においては、言葉も大切ですが「体験」や「体感」をより重視します。

静けさの中で自身を見つめる
――「気づき」を得るためにはどうしたらよいでしょうか。
伊藤:まずは静けさの中に自身を置くことです。「静けさ」とは、音がないことではありません。渋谷のスクランブル交差点のようなザワザワした場所でも、自分の中に静けさをつくることは可能です。
たとえ、鳥の声だけが聞こえる場所にいても、「あれもこれもしなければ」と心がざわついていては、本当の静けさは得られません。精神の持ちようです。心の声のボリュームを下げていく。ただし、心の声は自分のど真ん中にあるから、ゼロにはなりません。心の声+五感で音量を落とし、何が必要で何が不要かを解き明かしていく。これは骨の折れる作業ですが、今の自分に「メスを入れる」ことにほかなりません。

――心の中を鎮めるのは、なかなか難易度が高そうです。
伊藤:そこがやはり修行なのですね。ここからは禅の言葉を引用しながらお話ししましょう。美術館やコンサートに行くことも「気づき」を得るひとつのきっかけにはなるでしょう。けれどわざわざどこかへ出かけなくても、日々の半径5mの中にも意味や変化はあるものです。「雨滴声」という禅語は、日常の中にある些細な音や事柄にも意識を向けることで、五感を研ぎ澄まし、新たな気づきを得ることを教えています。「雨粒の声」が奏でるリズムやメロディーに耳を傾けてみる。まるで、雨という名のパーカッションオーケストラを聴いているようです。

日々の中に“道場”はある
――自分の日常の中にも修行の時間はあるのですね。
伊藤:そうですね。日常を「やり過ごさない」ことでしょうか。禅語では「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」や「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」といいます。特別な場所や機会ではなく、日々の生活、平常運転の際のありふれた営みこそが、自分を磨く道であり、道場だという意味です。例えば、掃除をする、歩く、庭を触る、お茶を準備する。これらの営みは、五感を使い、目の前のものと丁寧に向き合う時間です。「ちゃんと食べる」、「ちゃんと出かける」、「ちゃんと掃除する」。ともすればやり過ごしてしまいがちな日常こそ、一つひとつ味わい、丁寧に向き合うことで、そこに「道場」を見出す。それが「脱構築」への一歩となるのです。

――周りの人たちとの関係にも「気づき」はありますか?
伊藤:夫婦の関係などは、まさに「道場」です。相手が言ったことに「あれっ?」と思ったときどう対処するか。これが実は禅なのです。「自分とは違う」とか「男だから、女だから」と考えてしまうかもしれません。けれどそれは、本当に自分の価値観なのか、それとも過去の経験や固定観念によって発したものなのかと問いなおしてみる。不都合なことを言われたときにこそ、自分の中に静けさをもって問う。今の自分を「壊す」ところから新たな関係性を構築する。仕事相手、部下など世代の違う人との関係においても同じように問うてみてほしい。

――人は何歳になっても人間関係で悩むことが多いものです。他人にも自分にも優しくいられることはできるのでしょうか。
伊藤:確かにそれは難しいことです。けれど、どんな関係においてもユーモアは大切です。例えば、相手の言動を違うと思っても、まずはその人が選んだことを受け止める。そして、もし次に同じような状況になったときに、ほかにも選択肢があると、ユーモアを交えながら伝える。ここでは、ユーモアを交えることがポイントです。自分自身に対しても同じです。自分を否定し過ぎず、後悔し過ぎることなく、「これもアリだけれど、次からは別の選択肢もあるよね」と、自分に語りかけることが大切です。

禅はそもそもプログレッシブなもの
――禅は思った以上に革新的です。人も常に変化していくべきなのでしょうか。
伊藤:みなさん禅の教えは古来より続くものだと思っていらっしゃいます。けれど、本来禅は、漸進的なものです。「禅はこれですよ」と定義した時点で禅ではない。こんなに時代が進んでいるのに、まだ中国の達磨大師時代の教えが禅だというのは、私から見ると古典的すぎます。
人との関係性も同じで、「合う」、「合わない」、「もう付き合わない」など決めつけてしまっては先に進めません。今、世の中の分断を生んでいるほとんどは、線を引いてしまうこと。「世の中はこうなのだ」と見定め過ぎないこと。禅はずっとそう教えてきました。

人生の折り返し地点こそが最大のチャンス
――歳を重ね固定観念から離れられなくなるのは危険ですね。最後に歳を重ねた今だから意識すべきことがあれば教えてください。
伊藤:私たちは、社会の中で役割を担い、周囲から認められることでアイデンティティを確立しています。しかし、年齢を重ねるにつれて、そのアイデンティティが自分自身の本質とどれだけつながっているのか、と疑問に感じることがありませんか。そこで重要なのが「オーセンティシティ(自分らしさ)」です。20代、30代で築き上げた働き方や価値観が、50代になった今も最適なのか。50代までにさまざまな経験を積んできたからこそ、今こそが最大のチャンスです。「気づき」をもって「脱構築」すれば、新たな自分らしさを見出し、人生を切り開いていけるはずです。

両足院
住所:京都府京都市東山区小松町591
電話番号:075-561-3216
臨済宗建仁寺派の寺院。
お話を伺ったのは・・・
伊藤東凌(いとうとうりょう)
1980年生まれ。両足院の副住職。建仁寺派専門道場にて修行後、15年にわたり両足院での坐禅指導を行う。現代アートを中心に領域の壁を超え、伝統とつなぐ試みを続けている。アメリカMeta本社(旧Facebook)などアメリカ各地、そしてアジアやヨーロッパ諸国での禅指導など、インターナショナルな活動も積極的に行っている。『忘我思考』(日経BP社刊)など著書多数。