
Man of the moment
人生100年時代。上原浩治氏50歳の“これまで”と“これから”
21年間の現役生活で、日米通算134勝、128セーブ、104ホールドという前人未到の記録を打ち立てた上原浩治氏 。50歳という節目を迎えた今、マウンドを降りたその右腕は、自身の未来をどう描くのか。現役時代を支えた「雑草魂」、メジャーで得た自己へのまなざし、そして父としての息子への思い。ユニフォームを脱ぎ、フロリダと日本を往復しながら、YouTubeや解説活動を通じて発信を続ける第二の人生を歩んでいる上原氏 に、自身の“これまで”と“これから”を聞いてみた。
Photo:Kenta Yoshizawa
Text:Haruka Sato
Edit:Misa Yamaji(B.EAT)
雑草魂 上原浩治氏の原点
「プロに入って最初に買ったのがセルシオでした。そこからLEXUSになり、アメリカから帰ってきてからも変わらず乗りつづけています」
今回のインタビューがレクサスカード会員向けコンテンツ「moment」のものだと聞くと、上原浩治氏は日に焼けた顔に笑みを浮かべながらこう答えてくれた。
1999年にプロ野球・読売ジャイアンツに入団して以来、実に四半世紀以上、トヨタ車ひと筋だという。

「日本車はやっぱり一番性能がいい。何より運転しやすいし、長距離運転しても疲れないというのが一番です」
外車を数年おきに買い替えるようなプロ野球選手も多い中で、さっぱりとそう口にするのがこの人らしい。飾り気がなく、真っ正直。上原浩治氏はいつも、実力勝負の世界に堂々と正面から闘いを挑み、道なき道を切り拓いてきた。

「19」――。
現役時代、もっとも長くつけた背番号のこの数字こそが、上原氏の原点だ。
子どもの頃から注目を浴びるようなスター街道とは無縁の日陰を歩いてきた。東海大学付属大阪仰星高等学校では控えピッチャー。その後、推薦で大阪体育大学に行こうと考えていたが、その推薦をレギュラーのメンバーが受けることに。上原氏は受験したが、不合格だった。
1年間の浪人生活。予備校に通いながらスポーツジムでからだを鍛え、時には草野球に混じって技を磨いた。潰えそうな夢、野球への渇望・・・。暗闇の中で必死にもがいた“19歳”の葛藤は、困難に立ち向かう胆力に形を変えてその後の野球人生を貫いた。
「あの1年間、硬式球は一切握っていなかったですし、勉強をしながらアルバイトもしていました。野球がしたくてもできない、あの19歳の頃の苦しさに比べたら、野球で1本打たれようが、2本打たれようが大丈夫だな、って。だから背番号も19を選ばせてもらったんです」

プロ野球界の“エリート軍団”である巨人に入団したあとも、その反骨心を失うことはなかった。1年目にいきなり20勝を挙げて投手4冠を制し、新人王と沢村栄治賞を同時に受賞。「踏まれて強くなる」という意味から座右の銘としてきた「雑草魂」はその年の流行語大賞にも選ばれた。
「ジャイアンツに入ったからそれで終わりじゃない。同じチームであってもほかの選手はライバルなので、エリートの集団でも絶対に負けたくないという思いを常に抱いていましたね」
巨人での最初の10年間で112勝を積み上げ、4度のセ・リーグ優勝と2度の日本一に貢献した。エースとしてフル回転する中で何度か怪我にも見舞われたが、そのたびに立ち上がり、逞しさを増した姿を見せつづけた。右腕はまさに、踏まれて、踏まれて、強くなっていったのだ。
「19番のユニフォームを見ればいつも、怪我なんて何ともない、って思えた。治れば試合に出られるでしょ、って。どんなに勝っても、タイトルを獲っても、そこで満足はしていなかったです。同じ喜びをもう1年、もう2年、もっと味わいたい。いつもそういう気持ちを持ちつづけていました」
転機となったアメリカ・メジャーへの挑戦

大きな転機になったのは、メジャー挑戦だ。フリーエージェント(FA)権を行使して34歳となる2009年シーズンに海を渡った。ボルチモア・オリオールズ、テキサス・レンジャーズと渡り歩き、日本とは比べものにならない厳しい競争の世界で自身の存在価値を示しつづけた。
「結果を残せば生き残れる。ダメだったらそれはしゃあないわ、っていう、そういう考えで腹を括ってやっていましたね」
環境が変わり、アメリカで生活する中で自身の価値観も大きく変化したという。
「一番の変化は、周りを気にしなくなったことですね。日本人選手って周りを気にすることが多いですが、メジャーの選手は“まずは自分”というスタンスを持っている。他人と比べるのではなく、自分はどうしたらこのチームのためになるのか、そのためにやるべきことは何なのか、自分を磨くことだけに集中する。そういう考え方は、自分に合っていたと思います」

野球人生のハイライトは、ボストン・レッドソックス時代の2013年だろう。
シーズン途中からクローザーの座を勝ち取り、レッドソックスのワールドシリーズ制覇を牽引した。最後のバッターを三振に仕留めると、右腕を突き上げて歓喜の渦の中へ。ワールドシリーズの胴上げ投手となった日本人投手は、現在に至るまで上原氏ただ一人という歴史的快挙だった。
「優勝が決まったときは、やっと終わった・・・という気持ちでした。本当に1年間長かったな、やっと休める、というのが正直な思いで(笑)。ボストンでは成績も出ていましたし、何より勝ったときにみんなで喜べるという楽しさを味わえた。喜びを分かち合える幸せを感じた1年だったと思います」

その後、シカゴ・カブスを経て2018年に古巣の巨人に復帰。日本人で史上初となる日米通算100勝、100セーブ、100ホールドを記録するなど、ファンの前で最後の勇姿を見せたのち、翌2019年5月に現役引退を発表した。
日本一の歓喜を味わい、世界一の美酒にも酔った。日本代表としても2度のオリンピックに出場し、第1回WBCで優勝を果たすなど、栄光の歴史の1ページを作ってきた。21年間の輝かしい現役生活。その中でもっとも達成感を得られた瞬間について尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「それは野球を辞めた日です。21年も現役でできるなんて想像していなかったですし、そもそもはプロになることさえ想像できなかった野球人生でした。辞めるその日まで、常に上に行きたい、という気持ちを持ちつづけていた。その思いが完全になくなって、ユニフォームを脱ぐとなったその日こそ、自分が心から満足した瞬間でした」
44歳から歩み始めた第二の人生
上原氏は44歳まで戦い抜いた。ユニフォームを脱いで歩む“第二の人生”では、家族が住むアメリカ・フロリダ州と日本との2拠点を行き来する多忙な日々を過ごしている。
OBとして解説や野球振興活動に励みつつ、最近力をいれているのが引退後に立ち上げた自身のYouTubeチャンネルだ。ここでは、親交の深い顔ぶれと対談したり、現役時代のエピソードや自身の野球観を披露したりと、バラエティ豊かなコンテンツを発信して野球ファンから好評を得ている。

「元々はアメリカで中継ぎをしていたときに、(日本メディアに)ほとんど報道されなかったので、ファンに向けて自分からSNSで発信し始めたことがきっかけでした。自分の思いを伝えられる手段というのは今後もなくさないようにしたいと思っています。自分は隠すのが下手なので、ストレートすぎて“打たれて”しまうこともありますけどね。そこはあくまで自分の考えだということでこれからも伝えていきたいです」

一方で、現役時代はなかなか作れなかった家族との時間も大切にしている。
「子どもがアメリカの学校に行っているんです。妻はサポートするために向こうに住んでいますし、自分は仕事が多い日本で稼いで子どもを養うというか、高い授業料を払っていますよ(笑)」
息子を通じて感じた、スポーツにおける日米の違い
19歳の長男・一真さんは、高校時代からアメリカのアスリート養成校「IMGアカデミー」に通っている。フロリダ州にある同校には野球をはじめ、バスケットボール、ゴルフ、サッカーなどさまざまな競技のアスリートが集い、最新の設備でトレーニングを行う。メジャーリーガーも数多く輩出しており、日本ではプロテニスプレーヤー、錦織圭の出身校としても知られる最高峰のスポーツアカデミーだ。

「アメリカで育った長男は元々、夏は野球、冬はアイスホッケーをやっていましたが、本人の方から野球に集中して取り組みたいと言い出しました。これまでも僕が何をやれとか、ここに行けと言ったことはなくて、進路はすべて本人が選んできました。ですから、親としてはそこをサポートするだけ。(息子が)野球をやっていることは嬉しいですし、どこまで伸びるのかな、という楽しみはありますけどね」
一真さんをサポートする中で上原氏自身も父親目線でアメリカのスポーツを取り巻く環境や育成年代の指導の現場を目の当たりにしてきた。学校の部活動が基盤となる日本のアマチュア野球とはまったく違う指導風景には、驚くことも多かったという。

「IMGは世界中からさまざまな競技のアスリートが集まってきているので色んな言葉が飛び交っていますし、スポーツをやる環境としては素晴らしいところだと思います。アメリカでは子どもたちが本当にのびのびと野球をやっている。日本のような厳しさはなく、指導者がまったく教えないんですよ。それはそれでいい面もありますが、個人的には中学、高校時代っていうのはもう少し教えてあげた方が伸びる年代だと思うので、もったいないな、という思いもあるんです」
日本でもここ10年ほどで、野球指導の現場の空気は大きく変わっている。指導者から選手へ上意下達の指導法や厳しい上下関係は見直され、自主性を重んじる方向へ。しかし、ならばアメリカ流が正解かというとそうではなく、日本の野球界がこれまで培ってきたきめ細かな指導法のよさにも正解はあるはずだ。

「日本のあの厳しさがアメリカにもあれば、もっとアメリカのレベルは上がるはず。逆に日本にアメリカ的な緩さがあれば、野球が好きになる子どもが増えるんじゃないかな。どちらがよい、悪いというのではなく、お互いのいいとこ取りをしていけば、野球界全体のレベルが上がっていくのではないかと思っています」
上原浩治氏が思う、自身の未来
この先の選択肢として、指導者として球界に復帰することに興味はあるのだろうか。
「今の2拠点生活ではなく、ずっと日本にいるのなら、という条件がついてしまいますよね。ただ野球界の未来という視点は持ちつづけています。日本の野球人口が減っているという問題は言われつづけていますから、まず野球が楽しいと思ってもらえる子どもたちを増やして野球のレベルを上げていってほしいなと思っています」

野球界から離れて自由な時間が増えた現在は、ゴルフが一番の趣味だという。日本に戻った時は、愛車のLEXUS LSを駆ってゴルフ場に向かい、友人たちとグリーンの上で旧交を温める。

今年4月3日には50歳の誕生日を迎えた。
人生100年時代とすれば、まだまだ折り返し地点。自由な時間が増えたこの先の人生に、“未来の上原氏流”をどう描いているのか。


「僕は、過去を振り返るより明日を見た方がいいという考えでいつも過ごしています。だから明るく楽しくやっていくだけ。50年先のことなんて考えていないし、5年先、1年先のことだってわからないのだから、今できることをしたい。やりたいことはやれるときにしておかなければ後悔しちゃいますからね」
自由に、逞しく。頂点を極めた右腕はこれからも、誰も見たことがない大地を切り拓いていく。