日々のくらしに輝ける瞬間(moment)を与えてくれるモノやコト
歴史から紐解く奥深い和菓子の魅力
本物と呼ばれるモノやコトに触れて、心が震えたり、エネルギーやインスピレーションを得たように感じた経験は、誰もが持っているはず。ここでは、私たちの日常に輝ける瞬間(moment)を与えてくれるプレシャスなモノやコトを、その背景に潜む伝統や、そこに精魂を傾けてきた人びとのストーリーとともに紹介していく。
年中行事や寿ぎの場など、和やかな場面で用意されることも多い和菓子。
中でも季節の風物を象った上生菓子は、味わうだけに留まらず五感を研ぎ澄ませて楽しむ日本文化の華ともいえるもの。
元虎屋文庫研究主幹の青木直己氏に、江戸時代へと遡る歴史を聞いた。
Text:Itoko Suzuki
Edit:Misa Yamaji (B.EAT)
上菓子が誕生した背景には
経済の安定が遊び心を育んだ華やかな元禄文化があった
上菓子誕生の3つの要素とは
お正月になると抹茶とともに花びら餅を用意し、春めいてくると塩漬けの葉に包まれた桜餅が待ち遠しくなる。端午の節句には柏餅、夏になると見た目も涼しげな琥珀羹(こはくかん)、秋にはお月見団子・・・。
日々の生活の中に、季節の和菓子を楽しむ習慣が息づいている方も多いのではないだろうか。
改めて和菓子の定義を、元虎屋文庫研究主幹の青木直己氏にうかがってみると、「伝統的に植物性の原材料から作られた嗜好品であり、日本文化と深い結びつきのある菓子のこと。甘いものが多いですが、せんべいなどの塩味のものも含まれます」と話す。
ちなみに「和菓子」という言葉は、明治維新でもたらされた洋菓子と区別するために生まれた言葉のひとつで、それ以前は単に「菓子」と呼ばれていた。
その誕生の歴史を紐解いてみる。その昔は、甘い果物や木の実のことを指していた。一方で、米や麦などの穀物から作られた餅や団子も菓子の原形と考えられている。その後、遣唐使や僧侶などによってもたらされた中国の食文化や、ポルトガル・スペインなどの南蛮の食文化からの影響を受けて発展を続け、江戸時代には日本独自の菓子文化が確立した。
季節の風物を象った上菓子(じょうがし)(現在の上生菓子の原形)が成立したのは、元禄文化が花開いた17世紀後半の京都でのこと。それには3つのポイントがあった。
ひとつ目は、白砂糖が広く普及したこと。
強い甘みを持つ白砂糖は、輸入によってのみもたらされる、特権階級だけが手に入れることができる貴重な医薬品だった時代があった。その後、経済的に大きく発展した江戸時代に、高価ながらも甘味料としての使用が広まっていった。
二つ目は、“菓銘(かめい)”が付けられたこと。
それまでは「饅頭」や「団子」など、品名でのみ呼ばれていた和菓子だったが、華やかな元禄文化を背景に、『古今和歌集』や『源氏物語』といった平安時代の王朝文学から着想された菓銘を冠して作られるようになった。『古今和歌集』で詠まれた「立田川」や、『源氏物語』からの「若紫」など。その背景には、経済の安定により生活に余裕が生まれ、遊び心が育まれ、多くの憧れを集めた雅な平安文化への回帰といった流れがあった。
三つ目は、デザイン性が加わったこと。
菓銘とも呼応するが、王朝文学の一節をもとにしたさまざまなデザインが考えられ、技法も複雑になり、工夫の凝らされた上菓子が作られるようになった。
菓銘が付きデザイン性が加わったことの背景には、菓子見本帳という存在もあった。
そもそもは、きもの(小袖)の絵柄を選んで生地を染め上げる友禅染のオーダーシステムのために生み出された友禅染の雛形本(見本帳)が人気を集めたことから、その影響を受けて作られたのが菓子見本帳だった。菓子見本帳により注文を行い、上菓子を楽しんだのは、宮中や公家、有力な武家や寺社、裕福な町人などだった。
友禅染の雛形本とも縁の深い菓子見本帳は
現代の商品カタログのような存在
季節感ある上菓子を茶人も愛用
茶の湯と上菓子の関係性についてもご紹介したい。
茶の湯の世界では季節感は重要な要素のひとつであったが、その背景には茶人の間での俳諧の流行があった。俳諧には季語が必要条件のため、季節感とは切り離せないものだった。そのため、季節を感じさせる上菓子が茶の湯の世界でも多く使われるようになっていった。
材料にも目を向けてみよう。
「餡(あん)」とは本来、饅頭の詰め物のことを指し、饅頭発祥の中国では肉なども使われていたが、伝来した日本では野菜などを調理したものを饅頭の餡としていたと考えられる。その後、室町時代には現在のように、小豆の餡が使われるようになり、現在では甘い小豆餡を指すことが多い。
なお、白餡の場合は、手亡豆(てぼうまめ)と呼ばれる白インゲンマメや白小豆が原料となっている。ちなみに、ピンクや黄色といったカラフルな色合いの餡は、白餡に色付けをして作られている。
夏に多く作られる透明な琥珀羹には、寒天が使われている。江戸時代には、こうした材料の多様化も多くあり、デザイン性の広がりに大きく貢献した。
ちなみに、和菓子は植物性の原材料から作られているというのが本来の定義だが、例外として、南蛮菓子が渡来した16世紀後半以降、鶏卵も使われてきた。
関東と関西での素材の違いについても少し触れたい。多彩な形を作る上生菓子のベースとなるもので多く使われるのは、関東では白こし餡に求肥や山芋などを入れて練り上げる「練り切り」、関西では白こし餡に小麦粉や上新粉を合わせて蒸しあげた「こなし」となっている。見た目はとても似ているものの、実は原料や製法は違っている。
古い言い伝えを広め
人気商品になった菓子も
柏餅が江戸の武家に愛された理由
和菓子の中には個性的なエピソードを持つものも少なくない。
正月に登場する「花びら餅」、その由来は雑煮にある。宮中で召し上がられてきた行事食である「菱葩(ひしはなびら)」は、丸くのした餅に菱餅や白味噌、柔らかく煮た牛蒡を載せて二つに折った、別名「包み雑煮」と呼ばれるもの。明治時代に茶道裏千家家元が宮中の許可を得て、それを元にした花びら餅を初釜に使い、以後広まった。
6月を指す言葉でもある「水無月(みなづき)」は、三角形をした外郎(ういろう)などの生地の上に甘く煮た小豆をちりばめたもの。暑さを払うための氷を模した形ともいわれているが、この菓子が広く知られるようになったのは、古い言い伝えを菓子店が上手にアピールしたため。「6月30日に食べれば厄除けになり、病気にかからない」という言い伝えが広まり、人気を博したのだ。
江戸時代に定められた五節句は、一月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽・ちょうよう)と、それぞれにちなんだ行事食などがあるが、九月九日重陽の節句は、菊の節句とも呼ばれる日。菊花の上に載せた真綿(まわた)に菊の露と香りを移し、顔やからだを拭うことで健康を保つという故事があり、「着せ綿」という菓銘のもと、それぞれの菓子店が趣向を凝らしたデザインで作っている。
武家社会の江戸で広く親しまれた和菓子のひとつに、柏餅がある。柏の葉は、新しい葉が芽吹いてから古い葉が落ちることから、絶えることなく次世代へ続くことを象徴し、武家にとってもっとも大切とされる家の継承を祈願して食されてきた。ちなみに、江戸時代には取った柏の葉をすぐに使って柏餅が作られていたが、現代では前年の葉を塩漬けなどにしておき、翌年の柏餅に使っている。
和菓子と季節感は切り離せないものだが、実は、暦(こよみ)との関係性は少し複雑だ。というのも、江戸時代には太陰太陽暦(旧暦)が使われていたが、明治維新以降には太陽暦(新暦)が採用されているため、どちらの暦によるかで少し時期が異なってくる。現代の和菓子作りでは、そのときどきで両方の暦を使い分けていることが多い。そのため、ときに季節を先取りし、ときにその時期ならではの素材を使った和菓子と出合うことができるのだ。
目にしたときから味わい終わった余韻まで、五感を心地よく刺激してくれる和菓子という存在。移ろう季節を凝縮した小宇宙である和菓子が私たちの身近にある幸せを感じながら、その味わいに舌鼓を打ってはいかがだろうか。
教えてくれた人
青木直己さん
食と歴史の調査室主宰 元虎屋文庫研究主幹 東洋大学、立正大学、日本菓子専門学校など非常勤講師。
1989年に株式会社虎屋に入社、和菓子に関する調査・研究に従事、2013年退職。現在は専門学校や大学での講義を行うほか、時代劇ドラマなどの考証も行う。著書『図説 和菓子の歴史』(ちくま学芸文庫)、『江戸うまいもの歳時記』(文春文庫)、『美しい和菓子の図鑑』(監修・二見書房)など多数。